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ラ・ヴィアン・ローズ・朱雀の章

朱雀院家3【縁因】

 ←朱雀院家2【手紙】 →花街のこと。
 ――――1942年。
 結婚といっても、玉はまだ15歳。
 せめて18歳くらいになるまで、旭は待つ気であった。
 そもそも、朱雀院侯爵家当主の結婚となれば、華族間の目も厳しい。
 猛反対は目に見えているのだから、今からじっくり時間をかけて周囲を説得するには、むしろちょうどいいと思っている。
 それに・・・、まだ大東亜戦争(太平洋戦争)の只中。
 旭自身、帝国海軍士官として、成すべきことは山積みだ。
 家を空けることが俄然増え、残していく玉と、唄子のことが気掛かりだったが、最近は問題も発生しないで、助かっている。
 どうも、橘が唄子の抑止力たり得ていることは、二人の雰囲気を見ているとわかった。
「俺はただ、兄上を忘れさせてやると言っただけだ」
 作戦会議の休憩合間の雑談。
 そう言ってニヤリとした橘に、旭は顔をしかめる。
「忘れさすまでしなくても、よかろう」
「言葉の綾ってもんだろ。妬くなよ」
「妬いてなどおらん」
「二兎追う者は一兎をも得ずというぞ」
「私は唄子を追っているわけではない。わかってるか? 唄子はまだやっと13歳になったばかりだぞ」
「何年も待った。後数年待つくらい、大差ない」
「本当だろうな?」
「はいはい、寝ませんとも」
「たち・・・!」
 思わず立ち上がると、いつの間にか再開されていた作戦会議の中、旭に一斉に注目が集まる。
「朱雀院准将、何か、意見かね」
 上官の声に、旭は姿勢を正す。
「は! 出来得るならば、この作戦、陸軍との共同作戦をとれれば、理想的な挟撃戦を展開できるやに、将官には思われます」
 変わり身の早さに、橘が肩をすくめる。
 変わり身というより、常日頃、自分が関わることすべて念頭に置いて行動している。
 そういう男なのだ、朱雀院 旭というのは。
 ただ・・・今の話題が玉のことであったなら、彼の心中はそれ一色に染まる。
 橘が心配したくなるほど、何事にも気を張って生きている感のある旭に、玉は唯一それを掻き乱すことができる、とても必要不可欠な存在に思えてならない。 
「准将の意見は我々も是とする、が、陸軍側がどういうかな」
「・・・閣下の心中、お察しいたします」
 それ以上語らず、旭は腰を下ろした。
「アメリカは陸海共同作戦を常としている。対して、我が帝国は陸と海の二つが反発しあい、各個に戦っている有様だ。その逆でも勝てる見込みがないものを・・・」
 橘にだけ聞こえる呟きが、旭の口から漏れた。
「占領地を拡大し、優位の立場で講和に持ち込む時期は、完全に逸した。今や拡大故の劣勢に次ぐ劣勢。これでは、本土制空権を占められるのも、時間の問題だな」
 橘が囁くと、旭が頷く。
「そうなれば、本土に火の手が上がるのも・・・」
「嫌な予想図だ」
 旭が目をつむった。
 自分は軍人であり、自分の家族を身近では守ってやれない。
 せめて、少しでもまっとうな作戦立案が通れば良いが、現状ではそれも叶わない。
 長きにわたる日中戦争で疲弊した日本が、アメリカに勝てると思っている者は、この海軍司令部には一人もいない。
 それでも、勝つために作戦を話し合う日々。
 せめて、せめて銃後に控えた日本の家族達に、被害が及ばぬように・・・。



 衣食は不便になってきたが、元々貧しい家で生まれ育った玉には、さほど気にならないらしい。
 着なれないモンペを着せられて、不服満面なのはお嬢様育ちの唄子の方で、食べ物の文句を言っては、橘にお尻を叩かれていた。
「糸さん、豊子ちゃんの物で、不自由していることはありませんか? 出発前に、何とかできるものは手配しますから」
 旭がそう言って、乳飲み子の豊子を抱える糸を振り返った。
 身請けの時に妊娠していた子を、糸は正月明け、無事出産したのだ。
 女の子だったその子の名付け親になって欲しいと糸に頼まれ、恐縮しながら引き受けた旭は、「豊かな時代で生きて欲しい」との思いから、「豊子」と名付けた。
「ありがとうございます。お陰さまで、おしめもミルクも十分ございますから。産着など、こんな立派な物を着せていただいて、豊子は幸せ者です」
「唄子のお下がりなのですから、お気になさらず。では、いってまいります」
「いってらっしゃいませ、旦那様。どうぞ、お気をつけて。早く帰ってきてくなっせ」
 幾度目かの戦地に赴く旭を見送る玉は、まるで彼が長の旅行に出かけるような気軽さだった。
 この戦争で亡くなった人を、身近に知らないのだ。
 だが、この作戦から旭が帰った時、玉も変わっていた。
 東京初空襲を体験したのだ。
 攻撃を受ける恐ろしさを生まれて初めて味わった玉は、自分の愛する人がどんな場所に出かけているのかを、ようやく思い描くことができた。



「機関部被弾! 隔壁、閉まりません! ダメだ、沈む! 総員退避! 総員退避―――!」
 旭の搭乗する巡洋艦は、米艦隊の砲撃にさらされていた。
 その衝撃で吹き飛ばされた旭の体に、橘が覆い被さる。
 濛々と煙が上がる艦内に、バラバラを走る搭乗員たちの足音が響く中、旭はしたたか打ちつけた肩を擦りながら、重たい体を起こした。
 目の前に、崩れ落ちた船体の一部が燃えている。
 橘に突き飛ばされなければ、今頃はあの下敷きだっただろう。
「橘、大丈夫か」
 返事がない。
「橘!? おい、橘!」
 煙のせいで不明瞭な視界の中、目を凝らすと、白い制服が床に見えた。
「橘!」
 その体を揺さぶると、気を失っていただけだった橘が、旭を見上げる。
「旭・・・、無事か。良かった・・・」
「ああ、お前のお陰だ。退避命令が出てる。行くぞ」
「・・・すまんが、ここでお別れだ」
「何を言って・・・あ」
 橘の片足が膝から下、燃える船体に押し潰されていた。
「抜けそうもない。お前だけ行け」
「馬鹿言うな!」
 少しの隙間に手近な鉄柱を突っ込み、梃子代わりとしたが、鋼鉄のそれはビクともしない。
「早く行け。守刀の俺がお前を巻き込んで死なせたとあっては、亡き先代に顔向けできん」
「友人の一人も救えない俺こそ、父に顔向けできるか!」
「唄子姫に、伝えて欲しい・・・」
「うるさい! 自分の口で言え!」
 ガクンと船体が大きく揺れた。
 このままでは、本当に二人とも巡洋艦諸共だ。
 旭は腰の紅の柄に手をかけた。
 鞘から引き抜かれた刀が、橘に振り下ろされる。
「―――――!!」
 橘の言葉にならない叫び声。
「行くぞ」
「・・・無茶するなよ・・・」
 旭の肩に支えられ、よろよろと立ち上がった橘は、何とかボートに移乗し、無傷の旗艦に収容されると、旭に切り落とされた片膝の応急処置を受けた。



 片足を失った橘は、戦闘不可能と見なされ、軍籍を外れた。
 旭は逆に安心していられる。
 戦いに明け暮れ、日本に帰れても、司令部を抜けられない以上、信頼できる男を玉たちの傍に置いておけるのだから。
 心配だったのは、玉からの手紙。
 読む個所がないほど、検閲の手が入ってしまっている。
 ここにどんな文章が書かれていたのか、大体想像がつく。
 ただ旭恋しさに書いたそれを、反戦思想として憲兵にでも目をつけられたら、玉がどんな目に合されるか・・・。
 橘が傍にいてくれれば、彼女に素直すぎる手紙がいかに危険か、教えてやってくれるだろう。
 やはり、橘の帰還は功を奏した。
 玉の手紙に変化が現れて、検閲を越えられる内容になっていた。
「うん? おかしいな・・・」
 旭に手紙を書きたい一心で、読み書きを必死に覚えた玉は、簡単な漢字なら書けるようにまで成長していた。
 それなのに、手紙はすべて、平仮名だけになっているし、改行が変だ。
 時候の挨拶。戦時下ならではの激励文。姉や姪の様子。唄子のこと。
「・・・あ」
 旭は行頭にくる文字だけを、指でなぞる。
――――オ、レ、ノ、ダ、イ、ス、キ、ナ、ダ、ン、ナ、サ、マ、
「オレの大好きな旦那様。死なないで。早く会いたい。戦争なんか嫌いだ・・・」
 涙がこぼれた。
 こういう文章が出来上がるように、必死で手紙と格闘している玉の姿が、まざまざと浮かぶ。
 同じ物を返そうと思った。
 とても苦労した。
 それを、読み書きをやっと覚えた玉がやってくれたのだ。
 ありがたさと申し訳なさで、胸がいっぱいになった。
――――ワタシモハヤクタマニアイタイ。イトシキヒトヨ。イキヌイテオクレ。



 旭がようやく朱雀院家に帰ることができたのは、あの見送りから3年近くも経過した、1944年の年末のことだった。
 甚大な被害を受けたミッドウェーでの作戦以降、海軍は玉葱の皮を剥かれるように、その戦力を削ぎ取られるばかり。
 各地に進軍する陸軍も敗走を余儀なくされ、玉砕という言葉が定着している。
 それなのに、日本の地で聞かれる報道は、「大勝利」。
 大日本帝国は、国民をどこへ連れていくつもりなのか・・・。
 旭を出迎えた玉に、少し驚く。
 記憶の中の幼い少女は、すっかり大人びていた。
 それでもまだ、たったの17歳。
 如何に大変な日々を送って、こんなしっかりとした雰囲気を醸し出すようになったのか、その苦労がしのばれて、旭は目頭が熱くなった。
「旦那様・・・旦那様! 旦那様ぁーーー!!」
 大粒の涙で顔をくしゃくしゃにして抱きついてきた玉は、やはり、旭の知っている少女だった。
 片時も旭の傍を離れようとしない玉を、2歳になった姪の豊子が、不思議そうに見上げていた。
「豊子、こっちにおいで。お姉ちゃんが遊んであげるから」
 唄子も大人になったものだと、豊子を抱いてリビングから出て行く姿を見送る。
「ルソンの基地へ? どうして海軍のお前が・・・」
「最早、海軍と呼べる兵力はない。補給作戦の指揮権を任された。少将昇進だそうだ」
「・・・大本営は、どうかしてる」
 片足を失った橘は、手にしていた杖で口惜しげに床を打った。
 旭にしがみついて離れない玉が、時折、「やんだ・・・」と呟く。
 その頭を撫でながら、旭は出発までのわずかな休暇の間、ずっとこうして玉の傍にいてやろうと、心に決めていた。



――――大日本帝国、降伏。
 ハッと目が覚め、それが自分の願望が見せた夢であったことに、苦笑する。
「どした? 怖い夢でも見たんか?」
 旭のベッドで添い寝していた玉が、彼の顔を覗き込む。
「すまん、起こしてしまったか」
「オレ、起きてたから」
「眠れないのか?」
 時計を見ると、すでに3時を回っていた。
「ううん。旦那様のお顔を、見てたいんだ」
 可愛いことを言うと思ったが、そういえば、昨日の昼間も眠そうにしていた玉を思い出す。
「玉、まさか、夕べも寝なかったのか?」
「だってぇ、来週にはまた遠くに行ってしまうだろ、旦那様。今の内に、ずっと見ていたいんだ」
「体を壊すぞ。ちゃんと寝なさい」
「やんだ」
「玉」
「やんだ」
 ギュッと抱きついてくる玉のお尻を、ポンと叩く。
「言うこと聞かない子は・・・」
「お仕置きされても傍にいてくれるならいい!」
「玉・・・」
「傍にいてくれなきゃ、叱られることもできねぇだぞ・・・」
 首筋にしがみついている玉の頬が、涙で濡れていることに気付く。
 体を起こした旭は、首に絡まった玉の手をほどき、彼女の顔を覗き込んだ。
 頬に流れる涙に口づける。
 愛おしい少女を泣かせているのは自分なのだという、贖罪にも似た気持ちで。
「必ず、帰ってくるから・・・」
「ホントけ!?」
「約束する。私が、約束を破ったことがあるかい?」
「・・・ない」
「じゃあ、信じなさい。必ず、帰ってくるから、安心してお眠り」
「やんだ・・・」
「玉」
「・・・抱いてくんなっせ、旦那様」
 男として、一度も触れたことがない体。
 旭はこの夜、初めて、玉を女として素肌を重ねた。


 ――――1945年。
 一騎当千、という言葉がある。
 ルソン島で見せた旭の、中性的な体つきに見合わないその勇猛な戦いぶりに、さしもの陸軍も閉口した。
 朱雀院家当主に代々引き継がれる紅の柄の日本刀一振りで、旭は基地攻略に動いた米兵を殲滅寸前まで追い込んだのである。
 軍支給の軍刀ではなく、目立つ紅の柄の「紅蓮」なる日本刀を帯刀する旭は、海軍で『紅朱雀』と異称されていた。
 そのことは陸軍も伝え聞いており、格好ばかりの華族の小童と陰口を叩かれていたのだが・・・、あの鬼神さながらの戦いぶりは、その異称を認めざるを得ない状況を作り出していた。
「どうせなら、何故全部切り捨てなかったのです、朱雀院少将。捕虜などに食わせる食糧なぞ、我が軍にはありませんぞ」
「敵襲を受けるような基地に、いつまで陣取るおつもりか。敵軍に我らの位置が筒抜けであるなら、捕虜から少しでも情報を引き出して解放したところで、大差ありますまい」
 陸軍指揮官は年長とは言え階級が下であり、旭の言葉に拳を震わせるしかできずにいた。
 捕虜を収容した房に向かっていると、駆け寄ってきた下士官に、一通の手紙を渡された。
 玉からの手紙だった。
 捕虜房でそれを読みふけっていると、旭が捕縛した中で一際背の高い褐色の青年が、「サタンでも笑うんだな」と呟いた。
「私がサタンに見えたのかね?」
 手紙から目を離すことなく聞き返した旭に、褐色の青年は目を丸くした。
「アンタ、英語が話せるのか?」
「しばらく留学していたからね。私は朱雀院少将だ。君の名は?」
「スザーク? ・・・俺は、みんなから、クロスと呼ばれてる」
 房内から、笑い声が起こった。
「クリストファーって柄じゃないからな!」
「うるさいぞ! お前ら!」
 捕虜仲間に喚くクロスという青年に、思わず微笑む。
 日本軍にない気風だ。
 捕虜となっても、不安をジョークで掻き消そうとする明るさ。
「お前まで笑うな! サタン!」
「朱雀院だ。サタンはないだろう。サタン呼ばわりされた男の子供が、気の毒とは思わんか?」
「ほお! サタンに子供がいるのか」
「・・・妻からの手紙でね。妊娠しているそうだ」
 房内が歓声に包まれた。
「そいつぁめでたい! 祝いだ、祝い! スザーク! シャンパンはないか!?」
 苦笑が漏れる。
 同じ日本軍の兵士に、玉の懐妊を知らせたところで、こんな底抜けの明るい祝いの言葉は得られなかっただろう。



――――あなたと私の子が無事に生まれてくれることを、心より願っております。
    子供の名前をとのことでしたので、考えました。
    私は、私を見つめ返してくださるあなたの瞳が大好きです。
    あなたに良く似た娘が欲しいと思っております。
    ですから、「瞳子―とうこ―」という名前だけ、思いつきました。
    もし男の子であったなら、その時は、二人で考えましょう。



 これが、旭から玉に届いた、最後の手紙である。



 旭と玉。
 二人が死んだのは、奇しくも同じ日であった。
 ハーグ条約をないがしろにし、捕虜たちの処刑を決定した日本軍に対し、旭はその身を呈して彼らを庇った。
 そんな最中、米軍からの攻撃。
 米軍のスパイと罵られながら、旭は降伏を決意し、基地に残った日本兵全員に、投降を呼びかける。
「――――生きて日本に帰ろう」
 疲弊しきった日本兵達が、その言葉を恐る恐るながら受け入れるのに、時間はかからなかった。
 米軍との仲介を引き受けてくれたクロスの大きな肩に手をつき、旭は心の底から安堵して、呟いた。
「これで、玉との約束を果たせる・・・」
 刹那の銃声。
 旭の胸から、噴き出した鮮血。
 崩れ落ちる彼を、クロスが抱きかかえる。
「スザーク!」
 クロスは旭の腰から拳銃を抜き取り、彼を打ち抜いた陸軍指揮官に銃口を向けた。
「やめ・・・、クロス・・・。みなを、生きて・・・、日本に、帰し・・・」
 内臓から溢れた血が、喉を逆流して口をいっぱいにし、ちゃんとした言葉を紡げない旭に、クロスは荒々しく拳銃を投げ捨てた。
「・・・中佐・・・」
 旭が自分を中佐を呼ぶのを、陸軍指揮官は震えながら聞いていた。
「花街・・・、あなたが、玉を泣かせていなければ・・・、私は、玉と、出逢え、なかった・・・」
「花街・・・?」
 中佐と呼ばれた陸軍指揮官は、何のことかわからないまま、震えている。
「私は・・・玉と出逢えて・・・とても、幸せだった・・・」
「花街? 玉? ・・・・・・あ!!」
 陸軍指揮官の記憶に、引っかかったもの。
 それは、花街でいたぶっていた下働きの小娘が、身分の高い侯爵に身請けされ、口惜しい思いをした数年前のこと。
「玉が・・・いつも、あなたと私を、比べるものだから・・・、悔しくて・・・。言わなくて、良いことを・・・、言いたくなって、しまいました・・・」
 真っ青な顔で苦笑いした旭は、激しくむせ返った。
「おい! スザーク! スザーク! 今、救護班を呼びに行かせた! しっかりしろ!」
「・・・クロス。これ、やるよ・・・」
「え?」
 弱々しい手に携えられた、紅の柄の日本刀。
「羨ましがって、いたろ、お前・・・。私にはもう・・・、必要、ない、から・・・」
「馬鹿! 何言ってる! スザーク! すざ・・・、え? 何?」
 もう掠れた声が聞きとれない。
 クロスは彼の口元に、耳を寄せた。
 ――――た、ま。
「TAMA? おい、日本語じゃわかんねぇよ! おい、スザーク! スザーク!」
 必死のクロスの呼びかけに、旭は二度と答えなかった。



 ――――1968年
 二つ並んだ墓を、真夏の日差しの中、束子でせっせと磨く婦人がいた。
 それぞれの墓石には、橘と朱雀院の名が彫り込まれている。
 彼女は、東京大空襲のあった3月10日と、終戦記念日。そして、夫、橘の命日に、必ずこうして墓を掃除し、墓参りをするのだ。
「手伝ってやろうか、おばさん」
 そう彼女に声をかけたのは、彼女の息子の同級生の、高城という少年だった。
 高校が夏休みということで、帰省した息子にくっついてやってきて、我が物顔で彼女の屋敷に居候中の彼が、墓参りにまで同行してきたのだが・・・。
 物怖じしない高城のことを、彼女はまま気に入っていたので、束子を放り投げてやる。
「ああ、頼むよ。じゃ、私は少し、話させてもらう」
「話すって?」
「この中にいる人たちとね・・・」
「ん、そう。ごゆっくり」
 子供にしては粋な返答をするものだと思いつつ、彼女は二つの墓の前にしゃがみ込んだ。
「唄子さま」
「なんだい、新藤。今話してるんだ。邪魔するんじゃないよ」
「申し訳ございません」
 恭しく頭を垂れた新藤が、束子で墓をこするのに夢中になっている高城を気にしながら、唄子に囁いた。
「・・・へえ。こんな偶然、あるもんだねぇ」
 彼女・・・唄子はくすくすと笑って、高城を眺めた。
 兄・旭の娘を産んだ玉。
 東京大空襲のあの日、乳飲み子を抱えた彼女と彼女の姉の糸、その娘の豊子、そして橘とで、朱雀院家の敷地内に掘った防空壕に逃げ込んだ。
 新藤は兵隊に取られ、当時彼女らを守るのは、片足の橘だけだった。
 表の様子を見に外に出て、戻ってきた橘の判断は冷静で、この防空壕では蒸し焼きにされると、外に逃げることにした。
 乳飲み子を抱く玉を優先して外に逃がそうとしたが、玉は唄子に先を譲った。
 唄子が負傷していたからだった。
 玉は次いで小さな姪を抱く糸を先に行かせ、自分の乳飲み子を糸に抱かせた。
 そして、やっと自分が防空壕から這い出る番になったその瞬間、付近に焼夷弾が投下された。
 爆風で、防空壕の出口がふさがれる。
「玉―――!」
「行って!!」
 気丈な玉の声がふさがれた出口の隙間から響いた。
「どうかご無事で!! 糸ねーちゃん、瞳子を・・・瞳子をよろしく頼みます! どうか瞳子を・・・!」
 どうすることもできない状況の中、橘は半狂乱の糸を引きずり、防空壕を離れた。
 ようやく静けさを取り戻した焼け野原の中、燃え尽きた朱雀院邸敷地内の防空壕跡から、掘り起こされた、玉の遺体。
 その遺骨は今、朱雀院家の墓の中、ルマン島から送られた旭の遺骨と一緒におさめられている。
「・・・お兄様と玉の娘が、息子の担任とはねぇ・・・」
 二人の娘である瞳子は、糸が引き取った。
 恩人である旭と、妹の娘。
 自分の娘である豊子を育てていくだけでも大変な時代、糸は瞳子を我が子同様に育てていたと、新藤に聞いた。
 大きくなった瞳子の写真を見て、正直、ガッカリした。
 敬愛した兄の唯一の子でありながら、その面影を感じなかったからだ。
 橘は、糸母子の動向を新藤に調べさせる唄子に、良い顔をしなかった。
 執拗に瞳子のことを気にすると、子供の頃同様に叱りつけてくるものだから、しばらくは、忘れることもできていたのに・・・。
「おまけに、息子と恋仲だって? お笑いだねぇ」
「いかがします。ここは、年長者である瞳子さん自身に、坊ちゃまとの血縁関係を伝え、身を引いていただくのがよろしいかと・・・」
 新藤の提案はもっともだ。
 高校2年と殻は立派でも、中身は17歳の子供を説得するより、年長者の瞳子の方が、教師であるし親等の問題も理解できるだろう。
「・・・放っておき」
「し、しかし・・・」
「面白いじゃないか。お兄様の娘と私の息子の間に、もし子供ができたら・・・さて、どんな子が生まれるだろうねぇ」
 新藤はやはり昔のままで、唄子に何も言わなかった。
 これが橘であったなら、そろそろ40歳の声を聞こうというこの年になって、膝に乗せられて叱られたに違いない。
 橘という男は、そういう男なのだから。
「お前が悪いのよ、橘。お前がお兄様を忘れさせてくれると言ったくせに、こんなに早く私を置いて逝ってしまうから。お前のせいよ」
 橘は戦後、唄子と結婚した。
 数年後、男の子を授かる。
 橘はとても喜んでくれた。
 しかし、その後、彼は病で帰らぬ人となる。
 橘が興した会社を引き継ぎ、唄子はがむしゃらに働いて、世界屈指の橘財団にまでのし上がった。
「あら、なぁに? 私を叱りたいの? だったら・・・生き返ってきなさいよ。私の傍に、いてよ・・・」
 小刻みに震える肩。
 不意に頭に手が置かれて、唄子は驚いて振り返った。
「泣くんなら、声出しなよ、おばさん」
 高城だった。 
 苦笑する。
 橘に、頭を撫でられたのかと思った・・・。



 そして、1972年。
 瞳子が生んだ娘は、朱煌と名付けられた。



                               終


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