ラ・ヴィアン・ローズ・朱雀の章

朱雀院家2【手紙】

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「この調子で花街の女を全員身請けしてたら、朱雀院家は破綻だぞ」
 抱き合って泣く姉妹を眺めていた旭は、橘のため息を聞いて振り返った。
「・・・惚れた女の為だけだ。何が悪い」
 橘が笑った。
「とうとう認めたな」
 さすがに照れ臭くてそっぽを向くと、その視界に唄子が立っていた。
 少し離れて彼らを見ている唄子を呼び寄せたが、走って屋敷に戻ってしまった。
「唄子姫、荒れるぞ」
 橘の言葉通り、唄子は大変憤っていた。
 大好きで尊敬する兄が、玉に抱く感情を、察知していたからだ。
 兄にいつか自分ではない他の女性が添うのだと、漠然とはわかっていた。
 けれど、その女性が読み書きもできない無学で身分の低い田舎娘であるなど、許せない。
「今度メイドで雇うことになった玉の姉、妊娠してるらしいのよ」 
苛立ちのまま自室に向かっていた唄子の耳に飛び込んできた会話は、廊下を掃除していたメイド達のものだった。
「花街で買われた男の子供ってこと? このご時世に、ててなし児を生み育てるなんて苦労するだけだったろうに、旦那様に助けてもらえるなんて、運がいいわね、玉の姉さん」
「育てるどころか! 花街じゃ遊女が妊娠してたら商売にならないからって、かなり乱暴に赤子を流させるって聞いたわよ」
「まあ、怖い! 玉にしろ姉にしろ、花街に売られて苦労しただろうけど、旦那様に出逢えて運が巡ってきたわねぇ」
 まだ子供の唄子には、彼女たちの話の意味は理解できなかったが、以前、橘の呟きで耳にした「花街」という言葉が、会話の中に頻繁に聞こえることが、とても気になった。
 玉が、その「花街」というところから来た・・・ということだけは、わかる。
「ちょっと」
 現れた唄子に、メイド達は「しまった」と言わんばかりに口を押さえて顔を見合わせた。



 玉の姉・糸は、玉より4つ年長で、その分、大人だった。
 妹共々、身請けされて花街から救われたことに、丁寧な礼を述べて頭を下げた糸だが、旭を見つめる目は少々険しかった。
「侯爵様・・・、妹だけでなく、私までお助けいただいたことは、本当に感謝いたしておりますが、こちらで働かせていただくのは、ご容赦くださいまし。妹と二人、何とか働き口を見つけて、身請け頂いた金子は、一生かけてでもお返しいたしますから・・・」
「糸ねーちゃん? なんでだ? ここで働かせてもらえれば、住むとこにも困らねんだよ」
「玉」
 姉ににらまれて、玉はしゅんと口をつぐんだ。
「・・・糸さん。何を心配しているのかね?」
 黙って姉妹の様子を見ていた旭が、厳しい面持ちの糸を苦笑気味にみつめて言った。
「玉は、まだ14です。せっかく花街から出られても、日陰の身で生きていくなど・・・」
「糸さん、私は玉を日陰に置くつもりはありませんよ。一生涯の伴侶として、添うて欲しいと思っているのです」
 目を丸くした糸の袖を、玉が引っ張る。
「ねーちゃん、ハンリョって、なんだ?」
 幼い質問をはねつけるように、糸は玉を背後に押しやった。
「そのようなお戯れを、この子に信じさせないでくださいまし」
「戯れのつもりはありませんよ。私は本気です」
「ならば尚更、こちらにご厄介になるわけにはまいりません! この子が華族さまの生活に馴染めるわけございません。蔑まれて辛い思いをするのは、この子です!」
 それは、旭とて考えた。
「・・・貧しくとも、華族の中にあるより玉が幸せだと仰るのでしたら、私にも、その覚悟はできています」
「え・・・」
「朱雀院家でも、精一杯、玉を守っていきます。ですが、それが叶わぬ時は、玉と共に朱雀院家を出るということです」
「そ、そのような・・・」
 端正な顔立ちの紳士が見せる真剣な眼差しに、糸は恐れ入るような思いでいっぱいになりながら、震える手で顔を覆った。
 旭は糸の後ろでキョトンとしている玉のところまで歩を進め、そっと彼女の頬に手を添えた。
「玉、私の、お嫁さんになってくれないか?」
 玉の丸い目が、こぼれ落ちそうだ。
「え? オレ? オレが、旦那様の嫁っこさ、なるんか?」
「嫌、かな?」
「・・・やんだぁ・・・」
「え」
 思いも寄らない言葉が飛び出して、旭は頭が真っ白になってしまった。
 その強張った顔を見て、玉が笑う。
「花街の姉さんに教わったす。一度断って、その顔を見れば、相手の男が本気かわかるって」
 いたずらな目つきに、旭は顔が火照るのを抑えられなかった。
「こいつめ・・・!」
 玉のお尻に平手をお見舞いすると、彼女はお尻を押さえてキャッキャと逃げ回った。
 それを捕まえて、背中越しに抱きしめる。
「旦那様、オレな・・・」
「うん?」
「オレ、こんなだから、心配だ。旦那様は、誰が見たってご立派で素敵な方だから、旦那様の嫁っこさなりてぇ人、たんといるよ」
「私は、お前がいいんだよ」
「本当け? 信じていいんか?」
「信じなさい。私はお前を幸せにしたいんだ」
「・・・でも、オレ、ヤキモチ焼くのやだもんさ・・・」
 幼いなりにしっかり女の顔を見せる玉の上目遣いに、旭は彼女を向き直らせ、額を合わせた。
「信じるんだ。私は、お前が大好きなんだよ」
「・・・オレも、旦那様、大好きだぁ」
 恐らくは、とても幸せになれるはずの二人だった。
 だが、彼らの生きる時代が、それを拒むかのように、大日本帝国は米国との開戦を決定する。



 1941年12月の真珠湾攻撃に海軍士官として参戦していた旭と橘が、ようやく朱雀院家に戻れたのは、翌年の正月も済んだ頃だった。
 勝ち戦の報に湧きかえる国民を、帰路の車から眺めていた旭は、そんな戦勝気分には浸れないでいた。
 当然だ。
 これは始まりであり、早々に決着をつけたい上層部の思惑通りにいくとは、到底、思えなかった。
「そんな顔で帰ったら、奥方が心配するぞ」
 橘が言った。
 彼は玉を奥方と言ってくれるが、実際はまだ結婚したわけではない。
 求婚の直後の開戦で、それどころではなくなってしまい、姉の糸と共に、玉はまだ朱雀院家のメイドとして働いている。
 手紙のやり取りをしようにも、玉は読み書きができないので、留守にしていたこの数ヶ月、玉のことを知ることができるのは、新藤やメイド頭の手紙だけなのだが・・・。
 その手紙も最前線にいては滞っていた。
 いや、他の将校らには補給物資と共に手紙が届いていたので、朱雀院家からの手紙そのものが停滞していたと思われる。
「・・・玉を守ると、約束したんだがな。これでは、糸さんに叱られてしまう」
「糸はたいそう大人の女だ。世情とお前の立場を鑑みるくらい、してくれるさ」
 かもしれない。が、正直、旭が気に病んでいるのは、姉の糸のご機嫌ではなく、玉自身のこと。
 求婚後、すぐに放ったらかしの状態で、愛想を尽かされてはいやしまいかと、気が気ではない。
 今後も、長く留守をする状況は繰り返されるだろうから、そんなのは嫌だとそっぽを向かれるかもと考えると、キリキリと胸が痛む。
「おい、恋する青年よ。頼むから、考えてることを任務中並みにひた隠してはくれまいか? 見ていて、こっちが恥ずかしくなるぞ」
「ほお! お前は愛しい思いをひた隠すことが、得意なのかね」
 人ごとの橘の言葉に、珍しく旭が嫌味で応酬すると、彼は、いともあっさりと頷いた。
「ああ、得意だぞ。愛しい人が数年来気付かないほど、ひた隠してきた名人級だ」
 虚を突かれた旭の顔を、橘がニヤリとして覗き込む。
「それみろ。愛しい人の兄上とて、俺の気持ちをご存知ない」
「――――! お前、唄子を・・・?」
「ああ、愛しているよ。傍に居続けることができる新藤に、嫉妬するくらいね」
 何か言おうとした旭だが、ふと玉の姉のことを思い出し、苦笑して車のシートに深く体を沈めた。
 愛する妹だからこそ、反対したくなる気持ち。
 別に橘を憎らしくは思えない。
 願わくば、糸もそうであってほしいと、思うばかりであった。



「どうして? だって、本当のことじゃない。どうしてなの、お兄様・・・」
 自室のベッドにうつ伏せて、子供のように泣きじゃくる唄子を戸口から見つめていた橘は、ため息をついて、ベッドまで歩み寄ってシーツの上に腰を下ろした。
「無礼者! 来ないでよ! 今来ていいのは、お兄様だけよ!」
 だが、その兄がすでに屋敷にいないことに、唄子は更に泣き声を大きくした。
 旭と橘が朱雀院家に戻った時、玉はいなくなっていた。
 唄子が追い出したとも言えるが、自ら出て行ったというのは、間違いない事実であると、メイド頭の報告だった。
「花街がなんたるかを、唄子お嬢様のお耳に入れてしまった者がおりまして・・・。私の監督不行き届きでございました。申し訳ございません」
 花街が何かを知った唄子は、玉を責め立てた。
 金で買われて男と寝る世界など、想像もできなかった唄子は、どこまでも彼女を汚らわしい者として糾弾。
 その夜、玉は姿を消したという。
 そして、その事実を前線の兄に知らせることを禁じた。
 唄子にとっては当然の処置だった。
 生まれながら華族であり、そういう人付き合いしかしたことのない唄子には、そんな女を正妻に置くなど、兄が蔑みの目で見られるであろうことは、容易に想像がついた。
 もちろん、敬愛する兄を奪われる嫉妬もあったが、寛容さだって、見せてやったつもりだ。
「お兄様ほどの方に、妾の一人や二人、いても当たり前よ。だから、お前が妾でも傍にいたいと言うのなら、許してやるわよ。けど、朱雀院家の侯爵夫人を名乗るなど、おこがましいことは、認めないわ」
 そう言ってやった。
 その翌朝、玉の失踪を聞いて胸がすいたが・・・やっと帰った旭が見せた動揺と、叱るどころか唄子を眼中に入れることもできないうろたえぶりが、ひどく彼女を傷つけた。
 こんなはずではなかった。
 叱られると思っていたのだ。
 だが、叱ってさえもらえないことが、兄を遠くに感じさせて、唄子はこうして泣きじゃくるしかなくなっていた。
 橘の手の平が、髪に触れた。
 それを撥ねつける。
 立ち上がった橘の気配に、弾かれるように起き上った唄子。
「お前まで!?」
「戸を閉めに立っただけですよ」
 そう言った橘は、開け放ってあった唄子の部屋の戸を閉めて、再びベッドの縁に座った。
「もう、およしなさい。身にしみてわかったでしょう。玉を追いやったところで、兄上の関心があなたに帰ってくることはない」
 橘の頬に向けて振り上げた手の平は、容易く彼に掴まれた。
「・・・どうして? どうして、玉なの?」
「わかっているのでしょう?」
 そう、唄子には兄が何故、玉に惹かれるのかがわかっていた。
 以前、旭が唄子とお揃いのリボンを、玉にお土産に渡した。
 そのリボンをつけて仕事をしていた玉を、唄子が自分のリボンを盗んだと責め立てたことがある。
 自分のリボンを無くしてすぐだった。
 それに、兄が自分と同じ物を玉にプレゼントするなど、想像もしていなかった。
 それを見咎めた橘に、お仕置きされることになったのを見ていた玉が、急にその場から走り去り、すぐに戻ってきた。
「あったよ! 唄子さまはリボンを無くしてなんかいね! だから、お仕置きなんてダメだぁ」
 橘がお仕置きしたのは、別に唄子がリボンを無くしたからではなく、玉を盗人と決めつけて責めたからだと、当の唄子だってわかっていたのに、責められた玉本人が、まるでわかっていなかったのだ。
「・・・遅いわよ、ばか!」
 橘の膝の上で、すでにお尻を数発叩かれた唄子が喚く。
「申し訳ねぇす。お嬢様、申し訳ねぇす」
 そう頭を下げる玉の髪から、リボンが消えていた。
 誰にだってわかる。
 玉は自分のリボンを慌てて外して、唄子の物だと持ってきた。
 苦笑する橘の膝から下ろされて、唄子は玉の手にするリボンを奪い取り、その場を去った。
 それから、必死で無くしたリボンを探して・・・。
 みつけたそれを、玉に渡した。
「ありがとうごぜます、お嬢様。申し訳ねぇす」
 本当に嬉しそうに笑う玉を見ていると、兄の気持ちがわかりそうになってしまって、唄子はどうしようもなく惨めな気持ちを抱えて、自室に戻ったのだった。
「・・・私は、決して玉のようにはなれないわ」
「そうですね。ですが、玉になることはない。あなたは、意地悪で根性悪でわがままで高飛車で・・・」
「橘!」
「気高い。そんなあなたが、私は好きです」
 長年培ってきた想いを、唄子が弱っている今こそ狙って吐露することに、橘の躊躇はなかった。
 そうでもしなければ、自分を従者以外に見ていない高貴な姫君の心を揺り動かせないことくらい、橘は承知していた。



 すっかり大きな腹となった玉の姉・糸を前に、旭はうなだれていた。
「申し訳ありませんでした・・・。玉を守ると言った傍から・・・」
 糸は玉が出て行く時、敢えて、この朱雀院家に残っていた。
 身重の体では、再出発を計ろうとする玉の邪魔にしかならないと、承知していたからだ。
 いや、それよりも・・・。
「私がここに残ったのは、玉が消えた時の侯爵様の狼狽を、拝見したかったからです」
「糸さん・・・?」
 糸は数枚の手紙を差し出した。
 あまりに拙いその文字は、初等科生の手習いよりひどかった。
「玉は、あれで一生懸命、読み書きをおぼえていました。戦地のあなた様と、やり取りができるように」
 なんとか読み取れる文字を目で辿る。
 ――――オゲンキデスカ? タマハゲンキデス。デモ、サミシイデス。
「あ・・・」
 涙があふれた。
 涙で字がかすむから、必死で拭った。
 ――――センソウナンカキライデス。ハヤクダンナサマニアイタイデス。
 必ず検閲に引っ掛かって、黒く塗り潰されるであろう文章が並ぶ。
 何枚もあるそれを、夢中で読み、最後の一枚に、旭の手が震えた。
 ――――ワタシハ、ダンナサマノメイワク。
  一際乱れた文字だった。
  内容よりも、それが玉の感情を率直に表していると、旭は思った。
「糸さん! お願いです。玉の居場所を教えてください!」
 愛想を尽かされたのでないならば、会いたい。迎えにいきたい。
 この乱れた文字が、自分に心を残しているからと、信じたい。
「・・・もう、妹をそっとしておいてやっていただけませんか?」
「嫌です!!」
 まるで駄々っ子のようだと自分でも思うくらい、大きな声が出た。
 糸が苦笑している。
 それはそうだろう。
 玉の姉といえど、まだ少女と言える年頃の娘相手に、はるかに年長者の男性がごねているのだから。
「戦争、早く終わらせてくださいね」
 そう言って、糸が玉の勤め先の名刺を手渡してくれた。



 玉の勤め先は大きな兵器工場だった。
 男手を兵士に取られて、女性の働き手を募っていた時だったので、すぐに勤められたらしい。
 終業時間を待って、門の所で待ち構えていた旭の姿に気付くや否や、モンペ姿の玉は反対方向に駆け出した。
 海軍士官の白い制服に追われる玉を、就労者達が目を丸くして見ていた。
 所詮、男と女の足だ。
 玉はすぐに塀に追い詰められて、今度は傍らに生えていた木に登り始めた。
「玉! 一緒に帰ろう」
 その言葉に、上の枝にかけようとした玉の手が止まったが、それはたったの一瞬で、すぐに塀の上に辿りつく。
 しかし、そこまで。
 飛び降りるには、少し高過ぎたようだった。
 登った木を下りれば旭がいるし、塀の向こうは高過ぎるし、玉は塀の上で行き場を無くした猫のように戸惑っていた。
「玉、降りてきなさい」
「・・・やんだ」
 そう呟いた玉は、塀の上をよろよろと歩いて、道路側に生えている木を目指す。
 その足取りは危なっかしくて、見ていられない。
「玉! やめなさい! 危ないから!」
 塀を渡る足を止めようとしない玉を見かねて、旭は木に登り、同じく塀の上に立つ。
 軍人としてそれなりの訓練を受けている旭は、塀の上でも地面と変わらない歩調で玉に近付く。
「やぁ! 来んでよぉ!」
「じっとしてなさい」
「やんだ!」
 玉が地面に飛んだ。
 彼らの動向を見物していた工員が、悲鳴を上げる。
 だが、いち早く塀を蹴って玉の体を抱きかかえた旭が、地面に降り立つ。
 工員の拍手喝采に、とんだ見世物を演じたものだとため息をついた旭は、抱きかかえる玉に、メッと顔をしかめた。
「このお転婆め」
 不貞腐れて顔を背けている玉の口元が、ほんの少しだが、嬉しそうにしているのを、旭は見逃さなかった。
 おそらく玉は自分の来訪を喜んでくれている。
 逃げて、追われて、こうして捕まったことを、嬉しいと感じてくれている。
 それを感じ取れて、心から安堵できたが・・・反して、沸々と湧き起こる怒り。
 この瞬間まで、不安しかなかった。
 追いかけて捕まえても、待っているのが拒否であったらと。
 それでも話し合いたかったから、心配で膨らみきった胸の内を堪えていた。
 その膨張しきった気持ちが、この瞬間に破裂した。
「おいで」
 抱きかかえたままの玉を、車に運んで中に放り込む。
 朱雀院家に着くまで、一言も口をきいてやらなかった。
 自分が怒っていることを思い知らせる権利くらい、今の追いかけっこで発生したはずだ。



 朱雀院家の離れに着くと、玉を住まわせていた部屋に強引に引き入れる。
「やんだ!」
「何が嫌なんだ」
 もじもじとしながら両手をお尻にまわした玉に、旭が頷いた。
「ああ、その通りだ。うんと痛いからな、覚悟しなさい」
「だって、オレは・・・!」
「ああ、唄子に言われたから家を出た。自分は私の迷惑になるってね」
「そうだ。なのに、なんでオレが怒られるんだ」
「お前を嫁にするのは、唄子なのか?」
「違うけんど・・・、でも・・・!」
「人に口さがなく言われるのが嫌か」
「違う! オレだって、それくらい覚悟の上だった」
「なら、どうして出て行ったりした」
「だってぇ・・・」
 こぼれ始めた涙を、旭が手で拭って抱き寄せる。
「オレは身分も低いし器量も悪いし、読み書きだってできねぇだぞ。いつか、ほかん人を旦那様が好きになったら、勝てっこね。旦那様に迷惑がられたら、オレ、堪えらんね」
「私が怒っているのは、それだよ、玉」
 玉を抱いたままベッドに腰を下ろした旭は、彼女の体を膝の上に腹這いにさせた。
「あ! やんだぁ・・・」
 モンペの紐をほどいて引き下ろすと、モンペの下の着物を捲くれば、下着のないお尻が現れる。
 旭の振るった平手が、玉のお尻に濡れ手拭いをはたいたような音を響かせ始めると、モンペが絡まった足が、じたばたともがき始めた。
「信じなさいと、言っただろう」
「でもぉ・・・、あッ、痛いぃ・・・」
 歯を食いしばって呻いていた玉だが、口を開いた瞬間、声が漏れた。
「お前が私を信じてくれなくては、私だって、どうしようもないじゃないか」
 一度声が上がると、もう我慢できなくなったらしい玉は、叩かれる度に会話にならない単語を羅列させた。
「でも」「だって」「やだ」「痛い」。そして、泣き声。
 幼い娘そのもののそれに苦笑して、旭は声をかける時だけ手を止めるようにした。
「私だってね、いつも不安なんだよ。長の留守でお前に愛想を尽かされるかもとも思うし、まだ若いお前が、もっと年頃になれば、私以外の男を好きになっていくかもってね」
「そんなこと・・・あるわけねぇ。オレ、旦那様が大好きだと、言ったろ」
 玉がべそべそと泣きながらそう言ってくれるのが、嬉しかった。
「ああ、だから、それを信じて帰ってきた。私も、言っただろう? 大好きだと。信じなさいと」
「・・・オレと旦那様じゃ、違う」
「何が違う」
「何度も同じこと言わせるな! 身分も器量も頭の出来もだ! オレは全部下なんだぞ!? オレの気持ちなんか、旦那様にわかりっこね!」
「・・・そういうのが、初めからわかってる二人だから、お互いを信じてなきゃ、やっていられないんじゃないのか?」
「ほら見れ! やっぱり旦那様は、オレを下に見てるんだ!」
 思い切り一発叩く。
「痛いーーー! 結局それだ! あの中佐さんと同じだぁ! オレが自分より下だと思ってるから、そやって力で言うこときかせようとしてるんだ!」
 苦笑が漏れた。
 玉が本当に旭という人間をわかっているのだなと、気付いたからだ。
「玉、お前、私があの中佐と同じと言われれば、それを嫌がってお尻を叩かなくなると思ってるね」
 恐る恐る顔をねじ向けて旭を見上げた玉の拗ねた顔と、真っ赤に染まってきたお尻を見比べる。
「少し前なら、そうだったかもね。女性を力でねじ伏せるような男、私は嫌いだ」
「ねじ伏せてるでねか」
「本当にそうかい?」
 これ以上叩かれたくない玉は、言ってしまいたかったに違いない。
 そうだ、と、一言。
 だが、玉はしゃくり上げてシーツに顔を埋めた。
「中佐さんはぁ、あんな風に追いかけてこね。工場のみんなに嘲るように笑われながら、あんな追いかけっこしね。オレを本気で心配したり怒ったり、しねぇ!」
 再び顔を上げた玉は、柔らかな旭の表情に、ぼろぼろと涙をこぼした。
「自分が恥をかかされたって、怒ればいいのに・・・! そしたらオレ、こんな痛くて恥ずかしいこと、思い切り、嫌がって暴れられるのに・・・!」
「・・・大好きな女の為に、自分が精一杯した行為を、私は恥とは思わない」
 泣いて赤くなっていた顔を、更に真っ赤にした玉は、膝の上から起き上がって、旭の首に抱きつこうとした。
「だ~め」
 再び膝の上に戻されて、拗ねた玉が、大げさに足をジタバタさせる。
「わかったよ! 本当に、旦那様を信じるから! ・・・もう痛いのやだよぉ」
「それにしては、聞こえてこないねぇ?」
「言えば、もう叩かない?」
「もうあんなハラハラする鬼ごっこをせずに済むならね」
「やっぱり! 恥だと思ってるんでねか!」
「そう思うなら、言わなきゃいい」
再開されたお尻への平手に、玉はわんわんと泣きじゃくりながら、「ごめんなさい」を繰り返した。
 衆人環視の中の追いかけっこ。
 ただ心配して追いかけてくれた旭。
 いっそ、怪我でもしていればと、玉は本気で思って泣いていた。
 あの中佐であれば、そんな怪我をしてもお構いなしに、恥をかかされた報復として、痛めつけられていただろう。
 だが、旭は違う。
 無茶な逃走劇を演じても、それで怪我を負った玉を、心から心配してくれただろうと、わかるから。
 いつしか、本気の「ごめんなさい」が口から漏れて、旭の手が止まり、膝から下ろされた。
 真っ赤に腫れたお尻を擦り、玉は涙でいっぱいの目を旭に向けた。
「もうヤダ、こんなの・・・。中佐さんの時より、ずっと痛ぇ・・・」
 道具で滅茶苦茶に叩かれたこともたくさんあるのに、旭の平手が沁みる。
「また心配かけたら、こうなる。それと・・・」
 べそべそと泣き濡れる玉を掻き抱き、旭が苦笑した。
「頼むから・・・他の男と比べないでくれよ」
 玉はキョトンとした。 
 確かに比べたが、玉はそれを「誰よりも旭」という意味でいたつもりだ。
 それは、言葉の端々から感じ取れていたから、旭だってわかっている。
 けれど・・・。
「あのね、玉。男っ生き物は、結構、狭量な生き物なんだよ」
「キョウリョウって?」
「ヤキモチ焼きだと、言ってるんだ」
 玉のお尻に負けず劣らす真っ赤な顔をした旭を見て、彼女が笑い始めた。
「こら、笑うな」
「だってぇ・・・」
「言っておくがな! そんな真っ赤なお尻を丸出しにしてるお前の方が余程・・・笑うなったら!」
 抱きしめた玉ごとベッドに転がり、旭は玉と額を合わせて、声を上げて笑っていた。




                            つづく


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