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ラ・ヴィアン・ローズ・朱雀の章

朱雀院家1【花街】

 ←紅蓮朱雀のこと。 →朱雀院家2【手紙】
――――1941年。

「どうなさるおつもりかな、閣下は・・・」
 にわかに高まる日米開戦の気運は、すでに日本国中に蔓延していた。
「欧米情勢にお詳しい閣下だ。反対姿勢をそう簡単には覆すようなことはなさるまいが・・・」
 大日本帝国海軍士官、朱雀院 旭―すざくいん あきら―は、空を仰いで、腰に下げた軍刀の紅の柄を握った。
「我らは軍人だ。命令となれば、戦うしかない」
 同じく海軍士官である幼馴染の橘―たちばな―は、黙って見つめ返しただけだった。
「ところで、橘。まさか、お前が私に付き合えというのは、ここではないだろうな」
 旭たちの行く手に見えたのは、豪奢なしつらえの料亭が居並ぶ花街。
 いわゆる、遊郭である。
「立ち止るな、若人よ。未知の場所を切り開く勇気を持て」
 そうニヤリとした橘に、ため息が漏れる。
「そんな勇気はいらんし、未知とやらも私は求めておらん。帰るぞ」
「まあ、そう言うな。お前のお固い頭は、たまには豆腐のようにしてやるのも大切だぞ」
「余計なお世話だ。あ! おいこら! 引っ張るな!」
 どちらかと言えば中性的な体格の旭より、たくましい体つきで背もずっと高い橘にがっちりと腕をつかまれてしまうと、それ以上抗えず、旭は渋々花街への門をくぐったのである。
 


 橘が贔屓にしている料亭のお座敷で、優美に舞踊る芸妓を眺めていても、旭にはピンとこない。
 いや、とてもよく修練した舞いだと思うのだが・・・。
「つまらなさそうな顔するな」
 橘にそう言われたが、そんなつもりもない。
 ただ、所在ない気分が拭いされないだけだ。
「酔った。ちょっと風に当ってくる」
「逃げるなよ」
 逃げたいが、制服の上着も軍刀も橘に取り上げられていては、帰るに帰れないではないか。
 白いシャツに白いズボンという軽装で、旭は賑やかな料亭の廊下を歩いていた。
 中庭が見事だった。
「まるで迷路だな」
 回廊を行きかう女中たちが、せっせと各部屋に酒や料理を運んでいる。
 なんだか忙しなくて、折角の中庭の風情も台無しだ。
 どこか、ゆっくり風情を味わえる場所はないだろうかと、もっと歩を進めてみる。
 かなり奥へ行ってみると、ようやく、喧噪めいた宴の声は遠く感じるようになった。
 なんだかホッとして、虫の音に耳を澄ませていた旭は、ふと、時折混ざる異音に気付いた。
「あ! ああ! ひぃ・・・! 嫌です! お許しください! いや、いや、いやあ!!」
 振り返ると、真っ赤な襦袢がはだけた年若い娘が、障子戸を開け放って、駆け出してくるところだった。
 旭は目を丸くする。
 そんな彼女を追って、男が飛び出してきた。
 男の格好で、帝国陸軍の士官であることがわかる。
 その士官は、白粉もしていない泣きべその女を容易く捕らえると、抵抗する足首を握り、部屋の中に引きずり戻す。
「お許しください! ああ! 許して! 許してーーー!」
「俺に恥をかかせて、ただで済むと思うなよ。きつい折檻をくれてやるからな」
「いやぁ! お願いです! お許しください・・・!」
 部屋に女が引きずり込まれ、しばし、女の泣き声だけが響いていたその部屋に、ピシリピシリと、鋭い音が鳴り出す。
「ああ! 痛い! 痛い! お許しください! ああー! 痛いーーー!」
 悲鳴と言える女の叫び声に、旭は思わず、その部屋の障子に手をかけた。
「ちょいと、何をしてるんだい?」
 仕立てのいい着物を小粋に着こなした年配の女が、旭を見咎めて言った。
「あら? その上等な身なりは、お客人でしたか。これは失礼しました」
 年配の女性がそう頭を下げる間も、障子の向こうの女の泣き声が続く。
「どうもこういう場所は不慣れとお見受けしますが・・・、お客様、人様の買い物にケチをつけるような無粋な真似は、控えてくださいましな」
「買い物?」
「そうですとも。あの娘は、あの客人に買われているんです。それなりの金子をいただいて、あの娘はここにいるんです」
 それは・・・この花街のこと、理解はできる。
「だが・・・痛めつけられているよ、あの泣き声は。遊女の体に傷がついて良いのか」
 年配の女が鼻で笑った。
「御心配なく」
 曰く。
 あの娘は白粉で隠せないほど器量が悪い上に、いくら注意しても、お国言葉もいまだに抜け切らないで、そこへ来て、何をやらせても容量が悪く、お客の前に到底出せずに下働きくらいしかさせられない田舎娘なのだという。
「あんな磨き甲斐のない娘に米2俵も出して親から買った挙句に、実入りがないんじゃ、こっちもやってられませんよ」
 年配の女は、障子を隔てて泣き続ける女がいる部屋を見て、うんざりと首を振った。
「あのお客人は、少々変わったご趣味の持ち主でしてね。稼げる子らを、傷物にされちゃかなわないんで、あの娘を当てがってあるんです。あの子が唯一金を生むところを、邪魔しないでおくんなさいよ」
 旭は黙ったまま、障子の向こうの泣き声を振り返り、その言い分で料亭の女将であろうことがわかる年配の女の脇をすり抜けて、橘の宴の繰り広げられる部屋に戻った。



 橘がこの料亭に泊まると言いだしたので、旭も仕方なく付き合って朝を迎えた。
 ただし、彼のように遊女と寝床を共にはしなかったが。
 明け方早くに目が覚めて、旭は夕べの喧噪が嘘のような料亭の中を歩いてた。
 どうにも、所在がない・・・。
 料亭の各々の部屋は静かだったが、そこかしこで、働いている下働きの者が見受けられた。
 ふと気付く。
 正面玄関の拭き掃除をしている、質素な木綿の着物の女は、夕べの女だ。
 汗を拭う傍ら、時折、お尻を擦って顔をしかめている。
「・・・大丈夫かね?」
 思わず声をかけてしまった。
 日の光を交えた料亭の中の明るさが、彼女を女というより、少女と言える年頃であることを確認させた。
 真っ白い軍服に身を包んだ旭から声をかけられた少女は、目をまん丸にして、声も出ない様子だった。
「驚かせてしまったかな。実は・・・昨夜、ここの奥の間で君を見かけてね。その…泣いていたので」
 少女はそばかすがいっぱいの頬を真っ赤にして、俯いてしまった。
「恥ずかしなぁ。そんなみっともねぇとこ見られただか、オレ」
 そう呟いてから、少女はハッとして周囲を見渡す。
「申し訳ありません。失礼な口をききました・・・」
 女将が少女のお国言葉が抜けないことを、嘆いていたことを思い出す。
 おそらく、お国言葉を漏らしてしまうと、叱られるのだろう。
 少女のおどおどした視線が、それを認識させた。
「随分痛めつけられていたようだったが・・・大丈夫かね?」
「・・・はい、大丈夫です。あのぉ・・・中佐さんがお目覚めになる前に、ここの仕事を終わらせて寝床に戻っていねと、また折檻、受けねばならねので・・・」
 そう言った少女が、無意識にお尻を擦った。
 それで、夕べのあの鋭い音が、彼女のお尻を打ち据えていた音だと気付く。
「あ、ああ、すまない。邪魔をしたね」
 ペコリと頭を下げた少女が、再び拭き掃除を始めたのをしばらく眺めて、旭は口を開いた。
「君・・・、名は?」
「え? あ、はい。玉と申します」
 独特のイントネーションでそう言った玉は、もう一度頭を下げて、仕事に戻った。



 部屋に戻ると、橘が朝げの味噌汁を啜っていた。
「どこへ行ってたんだよ」
「うん、ちょっと散歩だ」
「女を抱かずに朝を迎えた奴は、元気だな。食えよ、美味いぞ」
 旭の分の朝げの膳を押し出され、豪華な献立のそれに、あの玉と言う少女を思い出す。
 あの娘がこんな贅沢な朝食にありつくこともないまま、折檻されたお尻の痛みを気にしながら働いていたのを考えると、今すぐにでもここに呼び寄せ、これを食べさせてやりたくなる。
「・・・橘。ここの女を朝買うことは、できるのか?」
 すっかり朝の膳を平らげた橘が、すすっていたお茶を噴き出しそうになる。
「そりゃ、金さえ払えばなんとでもなるが・・・、お前がそんなこと言うとはな!」
「別に、そういう意味では・・・」
「夕べの内に、お気に入りでもみつけたか。好きな時に買えばいい。それがここの女だ」
 いくら親友の言葉とはいえ、なんだか聞いていて不愉快だった。
「・・・他の客が昨夜からいる女は・・・?」
「あぁ? なんだよ、横恋慕か。その客がまだいるのなら、やめておけ。無粋ってものだ」
 黙って膳の前に座って、朝げに箸をつけた旭を眺めつつ、橘がニヤニヤとする。
「気になるねぇ。朱雀院家のお固いご当主殿が、どんな女をお気に召されたか」
「そういうんではない。昨夜、客に折檻されて泣いている娘を見かけてな。助けてやれないかと、思っただけだ」
「客が遊女を折檻だって? そんなバカな。身請けでも決まってない限り、遊女に手を上げるような・・・あ、あれか」
 橘が眉をひそめた。
「知っているのか」
「客は陸軍士官だろう」
 旭が頷くと、橘は顔をしかめて舌打ちした。
「悪趣味な下衆野郎だ。女将が下働きの娘を当てがっているのだろう」
 もう一度頷いた旭に、橘が話したのは、障子を開け放った部屋で、雇った遊女たちに玉の剥き出したお尻を扇子で交互に叩かせて、それを眺めて笑っている陸軍士官を見たということだった。
 見物客が群がる中、逃げたくても遊女たちに腰を脇息に押さえ込まれていた玉は、ただただ泣いて許しを乞うていたという。
「足抜けしようとしたのを捕まっての折檻だったらしいが、他の遊女に聞いたところによると、あの男、女が泣くまでいたぶるのが趣味って・・・」
「もういい」
 聞いているだけで反吐が出る行為を、あの玉という娘は我が身に受けているのだ。
 危険を冒してでも足抜けに及ぶのは、当然に思う。
 しかも、遊女を同時に幾人も雇えるような金をばらまける男なら、あの女将も玉を庇うまい。
「なぁ、旭。気持ちはわからんでもないが、今日その娘を下衆から取り上げたところで、娘はたった一日夢をみられるだけだ。返って、哀れだぞ」
「・・・わかってる」
 橘は肩をすくめると、旭の腕を引っ張った。
「おい、まだ朝げの途中だ」
「陸軍ともめられたら困る。帰るぞ」
「お前が無理矢理連れてきたくせに・・・」
 そんな事実などおかまいなしに、橘は彼を花街から連れ出した。



「旭兄さまーーー!」
 洋館の玄関ホールを覗き込むように、吹き抜けの階段から身を乗り出して手を振っているのは、旭の年の離れた12歳になる妹、唄子だった。
「ああ、ただいま、唄子」
 絨毯の敷かれた階段を駆け下りてくる、可愛らしいワンピース姿の唄子。
 それが、ふと、あの玉という少女と重なった。
 あの玉は、どう見ても14~5歳くらいだ。
 年長の旭からすれば、唄子と変わらない。
 それなのに、この差はなんだろう。
 華族の家に生まれて、父は先の戦争で早くに亡くしたものの、家人だけでなく、この朱雀院家に仕える者からも、愛情をたっぷり受けて、はつらつと育っている唄子。
 反して、たった米2表で親に売られて花街にやってきた上に、器量が悪いからと、あんな朝早くから下働きし、旭よりずっと年配の男に弄ばれて・・・。
「お兄様?」
 いつものように抱きしめてもらうつもりで立っていた唄子は、ぼんやりとしている旭に首を傾げた。
「あ、いや、なんでもない。ただいま、唄子。良い子にしていたかい?」
「ええ、もちろん!」
 抱擁を満喫した唄子が、キッと旭の傍らにいた橘を睨んだ。
「橘! あなた、お兄様を疲れさせるようなこと、したのではないでしょうね!」
 女の勘は、幼くとも鋭い・・・。
「ご機嫌麗しゅう、唄子姫。別に、兄上に少々社会勉強の場を提供したまでですよ」
「お兄様があなたごときに教えられることなど、あるわけないでしょう!」
 勘は鋭くても、男二人の社会勉強が何を意味するかを察することができるほど、唄子はまだ「女」でない。
 唄子の後を追うように階段を下りてきた青年には、その意味がわかっているようで、苦笑気味に橘を見てから、旭に頭を垂れた。
「お帰りなさいませ、侯爵」
「ただいま、新藤。この一週間、何か変わりはなかったかね?」
「メイドが一人、田舎のご実家に戻らねばならないということで、お辞めになりましたが、それ以外は変わりございません」
「・・・そうか」
 新藤は庇っているが、おそらくは唄子が追い出したのだろうと思う。
 物心着く前に父を亡くしたこの娘を、母も親戚も甘やかすものだから、どうにも手の焼ける娘に育ってしまった感が否めない兄は、苦笑して新藤の肩を叩いた。
「前も言ったが、少々厳しく対応するのも、唄子の為だぞ、新藤」
「そのような恐れ多いこと、私にはできかねます」
 結局、唄子を叱る役目は、当主の自分に回ってくるのだ。
 橘家と新藤家は、古くから守刀として朱雀院家に仕える家系だ。
 同い年で学校もずっと一緒だった橘は旭と常に共にあり、まだ大学生の新藤は、唄子の守り役として、朱雀院家に住んでくれている。
 幼い唄子にすれば、兄が3人一緒に暮らしているようなもので、寂しい思いはしたことがないようだが、一線を引いた接し方をする守刀の存在に慣れているので、彼らに対する妹の態度は、少々目に余ることがある。
 別に、唄子に他の華族令嬢のような、楚々としたお姫様でいて欲しいとは思っていない。
 留学先で目にした欧米女性のように、はっきり自分の意見を言える快活な女性の方が、魅力的だと思うからだ。
 だが、唄子は我が妹ながら、ただわがままなだけに思える。
 なんでも自分の思い通りにならないと気が済まない。
今は子供だから仕方ないにせよ、このまま大人になったらと思うと、頭が痛い。
 唄子にとって、唯一敬愛の対象であり怖い存在でもある自分が、毎日家に帰れればいいのだが、不安定な情勢で、海軍司令部に詰めなければならない日が多い身。
 せめて、唄子付きの守り役が橘なら、まだ安心していられるのだが・・・。
 この新藤家の長男坊は、ありがたいことではあるのだが、唄子が可愛くて仕方ないらしかった。



 その晩、再び旭が外出した。
 彼に付き従うことを役目とする橘が同行しようとしたのを遮って、一人で。
 橘が苦笑する。
「花街か? 随分とまた、惚れ込んだものだな」
「そういうのではないと、言っただろう」
 肩をすくめる橘を尻目に、旭は自家用車の運転手に、行き先を伝えた。
「・・・やれやれ。頭を豆腐にしろとは言ったが、湯豆腐にしろと言ったのではないんだがな」
 車を見送って、自室に帰ろうと振り返った橘は、玄関に立っていた唄子に気付いて、顔を撫でた。
「惚れ込んだって何!? 花街って!?」
「唄子姫。お子様はもうねんねのお時間ですよ」
「お兄様、帰ってからずっと上の空よ! あなた、お兄様に何したのよ!」
 花街の意味を知ったら、兄に心酔する唄子がどれだけ怒り狂うかと思うと、げんなりして宙を仰ぐ。
 橘だって、いつもクソ真面目にしか物事に向き合えない主に、もっと柔軟に息抜きできるようになってもらおうと、旭を連れていったのだ。
 それがまさか、彼の心を動かす出逢いをもたらすなど、思ってもみなかった。
 まあ、それでもよいかと、橘は思っていた。
 唄子のこと。朱雀院家のこと。軍のこと。お国のこと。
 常に真正面にそれらを受け止めて思い悩む生真面目なあの男が見せた、初めての自分の感情。
「新藤! お嬢様がご寝所を抜け出しておいでだぞ!」
「橘! ちゃんと答えなさい!」
「命令してどうこうできるものでない気持ちを、摘み取ることもなかろう・・・」
「橘ぁーーー!」
 ワンピースを翻して挑みかかってきた唄子をヒョイと抱え上げ、橘は慌てて自室を飛び出してきた新藤を見た。
「新藤。我らがご当主の置かれるお立場を鑑みれば、妹君の守り役であるお前のやり方は、旭さまの負担を増しているだけだぞ。信頼されて大切な妹君を任されている自覚を持て」
「離せ、橘! 無礼は許さぬぞ! 離せと言うに!」
 橘の肩に担がれて暴れる唄子を、新藤はハラハラしながら見つめる。
「そ、それは重々承知しておりますが・・・」
「唄子姫を愛しく思う気持ちはわかる。だが、お前はまだ若い。愛しい思いがあるからこそ、時に厳しく姫に接する旭さまの気持ちを、理解できていない」
「そんなことは・・・」
「じゃあ、もっとしっかり躾けろ!」
 その一喝に、新藤のみならず、肩の上の唄子もビクッと首をすくめた。
「唄子姫がメイドを追い出したこと、旭さまが気付いてないはずなかろう。あの方が何も追究なさらなかったのは、庇ったお前の顔を立ててのことだ。お前が叱った後なら、庇うのも良かろう。だが、叱れないなら、無用の庇い立てなどするな!」
「うるさいわよ、橘! あなたはお兄様の守刀でしょ! 私の守刀に口出ししないで!」
 肩でバタバタと暴れ出した唄子に、橘は深いため息をついた。



「おや、昨夜の・・・。今日はお一人でのお越しですか?」
 女将の愛想笑いに頷いて、旭は玉を指名し、女将を驚かせた。
 あの陸軍士官が二日続けてくることはないらしく、その要望はすんなり通った。
 遊女より安い玉を指名したことで、旭の懐具合を過小評価した女将だったが、彼が料亭一番の料理を頼んだので、その態度が一変した。
 案内された部屋に料理が運ばれて、しばらくすると、着飾ってもらったらしい玉が、襖を開けて、深々と頭を垂れた。
「玉です。今宵はご指名頂いたそうで、ありがとうございます」
「お入り」
 返事をした玉は、奇妙な動きで部屋に入ってきた。
 顔を決して上げず、正座の足を手で引きずるようにしているのだ。
 そして、旭の傍らまで来ると、急に背中を向けて、戸口に向かって平伏する。
 お尻を向けられて、旭は目を丸くした。
「玉? 何をしているんだい?」
「中佐さんに、こうするようにと言われておるのです。私は器量が悪いので、顔は見たくないから、お尻だけ見せていろって・・・」
 あの独特のイントネーションで言った玉の扱われ方が垣間見えて、旭は胸を締め付けられる思いだった。
「私はそんな風に思っていないから・・・こちらを見なさい」
 恐る恐る旭に体を向けて顔を上げた玉は、彼の顔を見て、目を瞬いた。
「朝の、軍人さん・・・」
 玉の顔をしげしげと見る。
 何故、女将も陸軍士官も、この娘の器量を悪く言うのだろうと。
 そりゃあ、取り分け美人ではないが、素朴な田舎娘らしくて、可愛らしいではないか。
 頬いっぱいのそばかすは、色が白いからだ。若年の欧米人には、よく見られる。
「あのぉ・・・」
「ああ、すまない。玉、お腹はすいてないかい? 料理が来ているから、お食べ」
 目を丸くして並ぶ豪勢な料理を見つめた玉は、ゴクリと喉を鳴らして旭を見た。
「私なんかが、いいんですけ?」
「ああ、お前に頼んだものだからね。たんとお食べ」
 お腹を押さえた玉は、もう一度、旭を見た。
 彼が浮かべる表情が、あまりに柔らかかったので、本当に食べていいのだと理解したらしい。
「申し訳ねぇす! 申し訳ねぇす!」
 箸をつかみ、何度も頭を下げた玉は、夢中で並ぶ料理を頬張った。
「うめぇ・・・。オレ、こんなうめぇもん食ったの、初めてだぁ」
 その目には涙まで浮かんでいて、旭は思わずもらい泣きしそうになって、目頭を押さえた。
「おとうやおかあにも、食わせてやりてなあ。弟や妹らも、喜ぶだろなぁ。オレがもっと器量良しで、ここの姉さん達みたいに、いっぱいお金もらえれば良かったんだけどなぁ・・・」
「・・・お前は十分に可愛いよ」
「照れるでねか。いいんだ、オレ知ってるから。そんなこと言ってくれるの、軍人さんだけだ。でも嬉しい。ありがとうごぜます」
「本当だよ。こんな、華を争う場所にいるから、そんな風に言われるだけだ。お前は十分可愛らしい・・・」
「この飯っこ、白いでねか! うわぁ、白い飯っこ、初めて見た。良い匂いだなぁ・・・」
 精一杯の言葉がおひつの白米に負けて、少々苦笑する。
 玉はおひつに手を突っ込むと、一生懸命おにぎりを握って、旭に差し出した。
「軍人さんも、食べてな。オレばっかり食ってたら、気づつねぇ。白い飯って、夢にみたいにうめぇんだと。ここの姉さんに聞いたんだ」
 旭にとって、当たり前の白米飯。
 それを玉は、旭も知らないような遠い世界の話だと思っている。
 これは玉だけではないだろう。
 旭は、自分が守る日本の窮状を、改めて気付かされた。
「ああ・・・、ありがとう」
 受け取ったいびつなおにぎりを一口。
「ごめんな。オレ、白い飯っこが、こんなに柔らかくて握りにくいと思わなくて、うまく握れなくて・・・」
「いや・・・美味いよ。白い飯って、美味いな」
「だな! こんなに甘いんだなぁ。こんなに柔らけぇ。噛んでると、すぐになくなっちまう。もったいねぇなぁ」
 旭のおにぎりはしょっぱかった。
「軍人さん? なんで泣いてるだか? 足りねか? もっとあるよ。たんとお食べ」
 旭は玉を掻き抱いていた。
 玉が喜ぶように、一番上等な料理を頼んだ。
 その玉が一番喜んだのが、この白米飯。
 いくら日本の窮状を思いやっても、所詮、自分は上流社会しか知らない華族なのだと、思い知らされていた。



 おどおどしながら車から降りてきた玉を見て、橘は苦笑した。
大人しいようでいて、思い立ったら行動が早いのだから、うちのご当主は・・・。
「おかえり。昨日の今日で身請けとは、思い切ったもんだな」
「ん。ちょうどメイドの空きが出たのを思い出してね」
「なるほどな。俺もちょっと話があるし、このまま離れに行こうか」
 離れは朱雀院家の独身の使用人たちが住んでいる棟で、言わば独身寮のようなものだ。
 二人に連れられて離れにやってきた玉は、あんぐりと口を開けて、中を見まわしていた。
 洋館など見たことがない玉には、何もかもが珍しくて仕方ないらしい。
 辞めたメイドの部屋を玉の部屋にと案内したら、くるくるした丸い目が、こぼれ落ちそうなくらい見開かれている。
「こんな立派なとこに住まわしてくださるんだか? 申し訳ねぇす、まっこと申し訳ねぇす。まずは一緒の人に挨拶せねばぁ」
「一緒の人?」
「このお部屋に一緒に暮らす人だぁ」
「いや、ここは玉だけの部屋だが・・・」
「こ、こんな広い部屋にオレ一人でか!?」
 そう広い部屋という認識が、旭にはない。
 六畳一間でベッドがあるから、ソファも置けないのだ。
 旭に橘が囁いた。
 普通は、この広さの部屋に、最低4人は詰め込まれているものだと。
 4人なら良い方で、10人近くが雑魚寝で生活している使用人が多いことを教わる。
 まただ。自分は結局、何もわかっていないお坊ちゃんだということを、気付かされる。
「ここは先代がお優しい方だったから、生活面も給金も、使用人は良くしていただいてる。そんな好条件の職を辞めるくらいだ。出ていったメイド、よほど我慢を据えかねたな」
 暗に唄子のことを言われているとわかる旭は、見たことのないベッドにはしゃいでいる玉を眺めながら、頭を掻いた。
「新藤はダメだ。唄子姫の守刀としては申し分ないが、教育係りとしては、いただけない」
「玉、メイド頭に制服を用意してもらうから、ついておいで」
 旭は橘にしばらく待つよう言ってから、玉を連れ出してメイド頭に預けて戻った。
「それで?」
「お前が出かけてすぐ、俺は唄子姫のお尻をひっぱたいた。下着もひん剥いて、赤くなるまでな」
 そういうのではないかと思ったから、玉を連れ出したのだ。
 こんな話を聞いたら、玉が怯えてしまう。
「致し方あるまいな・・・」
「新藤の役割を奪っちゃ、新藤家に睨まれるからな。俺は厳しくするだけで、新藤には今まで通りでいてもらう」
「だが、それではお前が唄子の憎まれ役だぞ」
「俺はそれでかまわん。・・・そんな顔するな」
 頬にポンと拳を当てられ、旭が苦笑した時、ドアがノックされて、メイド頭に連れられた玉が、もじもじとしながら立っていた。
「オレ、洋装なんて初めて着せてもらったす。恥ずかしなぁ」
 こげ茶のメイド服に真っ白いエプロンは、旭の目にとても可愛らしく映っていた。



 玉はよく働いた。
 何をやらせても容量が悪いと花街の女将が言っていたが、その原因は視力だと気付いたメイド頭の要望で、メガネを作らせたら、失敗もほとんどなくなった。
 一月後、生まれて初めてもらった給金に目を輝かせていた玉が、それを持って出かけたまま帰ってこない。
「初めての給金が嬉しくて、夜遊びに夢中になってるだけだろう」
 玉の帰りを待つのにリビングでまんじりともせずにいる旭に、橘がそう言って肩に毛布をかけた。
「玉はそういう子じゃない。事故にでもあったんじゃなきゃいいが・・・」
「それなら警察から連絡が入る。あの子にはここの連絡先を書いた紙を渡してあるんだろ」
 橘がそう言った瞬間、電話が鳴り響き、旭は動揺で手が震えて受話器が取れないでいた。
 見かねた橘が電話を取る。
「はい、朱雀院です。・・・警察?」
 ガタン!と大きな音で橘が振り返ると、旭が椅子から立ち上がり損なって、床に跪いていた。
「ええ、はい、その娘は確かに当家のメイドです。はい、そうですか。お世話かけます。では・・・」
 受話器を戻した橘は、跪く旭を立たせ、軽く頬を叩いた。
「落ち着けって。玉は無事だ。警察に保護されて、これから送ってくれるそうだ」
「あ・・・良かっ・・・」
 両手で顔を覆って再び床に崩れた旭に、コーヒーでも淹れてやろうとリビングを出た橘は、小さな気配に気づいて顔をしかめる。
「唄子姫、夜更かししてると、お仕置きですよ」
 ビクリとして、おずおずとドアの陰から出てきた唄子は、リビングをチラリと見てから、橘を見上げた。
「橘、どうしてお兄様、あんなにあのメイドを心配なさるの?」
「盗み聞きなど、はしたないですよ」
「だって・・・」
 さあ弱った・・・と、橘は頭を掻いた。
 兄を敬愛して止まないこの小さな娘に、旭の心の内を知られたなら、どうなることやら。
「・・・兄上は、誰がいなくなろうと、ああおなりですよ。お優しい方ですからね」
「でも・・・!」
「早く寝なさい。それとも、お尻が痛くて眠れない方がいいですか」
 不満げではあったが、橘のお仕置きが何より怖い唄子は、すごすごと寝室に戻っていった。
 旭は橘の淹れたコーヒーに口をつけられるまで落ち着きを取り戻していたが、門をくぐる車のヘッドライトが小さく光ったのを見止めると、あっという間にそれも吹き飛び、リビングを飛び出す。
 警察の車から玉の姿が現れると、旭は彼女の手を掴み、足早に離れに引っ張っていく。
 常に礼節を忘れない当主が、警官に挨拶も礼もなく立ち去った行動に、橘は苦笑して、その代役を務めたのだった。



 玉を部屋に連れ帰った旭は、完全に冷静さを失っている自分に気付き、一度大きく深呼吸してから、ベッドに座らせた玉の前に膝をついた。
「玉、どこへ行っていたんだ。こんな遅くまで」
「・・・花街」
「どうして?」
「お給金・・・」
「え?」
 しくしくと泣き出した玉の言わんとするところがわからない。
 旭は手の平で玉の涙を拭ってやりながら、彼女の隣に腰を下ろした。
「ゆっくりでいいから・・・話してごらん?」
「・・・あの、な。たんとお給金いただけたからな、ねーちゃんさ、身請け、できると、思って・・・」
「身請け? ねーちゃんて・・・玉の本当のお姉さん?」
 コクンと頷いた玉を見て、旭は手の平いっぱいで顔を撫でた。
 わかってきた。
 あそこには、まだ玉の姉がいて。
 玉にとっては十分大金の給金で、姉を助けようと思った。
 だが、実際問題、身請けに必要な金額は、玉の想像をはるかに超える額だ。
「んでも、オレひとりでは、花街の門くぐらせてもらえなくて、んでな・・・親切な男の人がいて、オレの代わりに頼んできてやるからって、そん人にお給金渡しただけど・・・、戻ってこねもんだから・・・門の外で、ずっと待ってて・・・。そしたら、お巡りさんが・・・」
 なんて男がいたものだと、ため息がもれた。
 玉がせっせと働いてもらった給金は、すでに、遊女を買われて泡と消えているだろう。
「帰りたくながったんだぁ」
「え?」
「だってぇ、せっかくねーちゃんが花街出られても、オレがいなくなってたら、ねーちゃん、困ってしまう。あそこで待っていたかったんだけど、お巡りさん、怖いからぁ・・・」
 玉はまだ、金を預けた男を信じているのだ。
 こういう時、どう言えばいいのか。
 真実を知らせるべきなのか。
 こんな純真無垢な気持ちを、摘み取るべきではないのか。
「・・・あのね、玉。残念だけど、お前の給金くらいじゃ、身請けはできないんだよ」
「え! あんなにたんとあるのに・・・? じゃあ、旦那様は、あのお給金よりもっといっぱいお金を出して、オレを助けてくれたんか?」
 頷くのははばかられたが、またこんなことをされてはかなわないし、今度こそ大金を持ち歩く危険に遭遇されては困るので、ここはハッキリ頷くことにした。
 姉を救えないショックで、玉が泣きだす。
 しばらく泣きじゃくっていた玉が、突然ベッドを下りて、床に這いつくばった。
「お願ぇです、旦那様! ねーちゃんを助けてやってください! 身請けのお金は、オレとねーちゃんで頑張って働いて、絶対にお返しします! ですから、どうか、どうか、ねーちゃんを身請けしてやってくなっせ!!」
 必死で額を床に擦りつける玉を抱き起こし、床についていた額に、自分の額を合わせる。
「ばか。もっと早く言いなさい。安心おし。お前の姉さんも身請けして、ここで二人で働けるようにするからね」
「ありがとうごぜます、旦那様!」
 無邪気に首に抱きついてきた玉を、旭は心を鬼にして引き剥がす。
「事情はわかった。だが、そのことを何も言わずにただ外出して、心配をかけたのはいけないことだぞ。わかるね?」
 見たことがない旭の厳しい面持ちに、玉はシュンと俯いて頷いた。
「心配かけた罰だ。おいで」
 旭の膝に腹這いにされた玉は、自分が今から何をされるのか、わかっているらしい。
 大人しくはしていたが、旭の膝に震えているのが伝わってきて、少し躊躇する。
 意を決して一発目。
 短く呻いた玉。
 パン、パン、と、連続して叩く間、玉は旭の膝小僧を抱きかかえて呻いていた。
 十ほど叩いて、抱き起こす。
 顔を覗き込むと、真っ赤にした顔で涙ぐんでいた。
「痛かったね。もう、心配かけちゃいけないよ」
「はい・・・ごめんなさい」
「いい子だ。疲れただろう。今日はもう寝なさい。寝るまで、傍にいてあげるから」
 寝巻に着替えた玉が布団に潜るのを、ベッドにかけて見つめる。
 何が「傍にいてあげる」だ・・・と、苦笑しながら。
 自分が傍にいたいだけではないか。
「・・・旦那様」
「ん? 眠れないか?」
「あんな、全然違うだな、お尻・・・」
「え? ・・・ああ・・・」
 玉が言っていることを理解した旭は、少々不愉快な気分で頭を掻いた。
 あの花街の陸軍士官と比べられているのだ。
 同じ行為をする以上、そうなるとは思っていたが、改めて言われると、やはりいい気分ではない。
「そりゃね・・・あんなにきつく打ち据えたりしていないし、スカートの上からだし・・・」
「ううん、違うんだ。きつさとか、そういうんでね。オレきっと、お尻出されて、うんと叩かれても、旦那様のは違うって、感じたと思うんだ」
 黙ったまま、髪を撫でる。
「おかしいな。同じことなのにな。こんなに違うもんなんだな。・・・旦那様」
「うん?」
「ありがとうな、心配してくれて・・・」
 布団の中から伸ばされた手を、そっと握り返す。
「私がお前を心配するのは当たり前だ。また心配させたら、今度は本当にお尻を出させて叩くからな」
「やんだぁ」
 恥ずかしそうに布団をかぶってしまった玉。その布団をめくり、旭はそっと玉の頬に口づけた。



                        つづく


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