ラ・ヴィアン・ローズ

第15話【懲罰】

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    ―1990年―


 再び眠りについた黒荻の寝顔をしばらく眺めながら、子供の頃をつらつらと思い出す。
 母の負担になるなと説けば、必ず殴られた。
 朱煌が泣こうとしないから、黒荻はさらに激情したものだ。
 虐待を受けた翌日に浮かび上がる痣を、黒荻は苦々しげに見ていた。
 そして丸一日帰ってこない。
 帰ったと思ったら、パチンコの景品らしい袋いっぱいの駄菓子を朱煌に黙って押し付けて、部屋の隅でふて寝。
 子供かお前は…と思いつつ、いつしか本当に眠り込んでしまう黒荻の寝顔とふざけた侘びの品を見比べ眺めた遠い昔。
 正直言ってしまえば、初めて黒荻と出会った時、劇的なシチュエーションと彼の人工的なまでの端正な顔立ちが相まって朱煌の幼心をときめかせた。
 淡い……初恋。
 けれど彼は母の情夫におさまり、その後訪れた屈辱と苦痛の日々で、そんな想いは見る見る萎んでいったのだが……。
 母を幸せにできる素質ありと見込んで、黙って殴られてやっていた。
 でも、やっぱり辛くて、苦しくて……いつも誰かの救いの手を待っていた。
 あの時、高城と出会わなければ、自分は一体どうなっていたのだろう……。
「あ……」
 また紐解かれた記憶。
 そうだ。
 黒荻からの仕打ちに逃げ出した、あの夜の公園。
 そして現れた……高城善積。
「――――お兄ちゃん…」
 孤独の淵から朱煌を救いあげてくれた、心の拠りどころ。
 何故こんな大切なことを忘れてしまっていたのだろう。
 初めは鬱陶しくて仕方なかったお節介刑事。
 いつしか、一緒にいればありのままの自分でいられることに気付いた。
 自分を抑えることしか知らなかった。
 他人と深く関わりたくなかった。
 黒荻にいらぬ期待を寄せて裏切られ、もう何も信じないと固く誓った朱煌の心に、ズカズカと土足で踏み込んできた侵入者。
 思い出せて嬉しい記憶など、これが初めてだ。
 今まで思い出せたのは、すべて惨めなものばかりだったから。
 思わずこぼれた涙。
 その心地よさに頬を伝うまま自由にさせる。
 不思議だ。
 自分はいつからこんなに、涙に抵抗を持たなくなったのだろう……。
「失礼します」
 ノックと共に姿を現したのは姫護だった。
「姫さま、黒荻さんの様子は?」
「ああ…、今また眠ったところだ。まだ鎮痛剤が効いてるんだろう」
「では、起こしては申し訳ないな。血液検査はマダム・アクトレスに頼むとしましょう」
 そう言いながら、姫護は朱煌の涙をハンカチでそっと拭った。
 朱煌もされるがまま。それが当然だと思ったから……。
「また出掛けるのか」
「はい、所用が色々と…」
 自分を『姫さま』などと呼ぶ謎めいた男は、恭しくこうべを垂れて、部屋を出て行った。
「さてと…」
 椅子を立ち、体いっぱいで伸びをする。
「あたしもそろそろ逃げるかな」
 姫護が出掛けてしまえば、実質この家には朱煌と成子の二人きり。
 そうなれば待っているのは……。
 二晩ほど雲隠れすれば、年明けだ。
 そうすれば成子夫妻は芸能人らしく海外旅行へ出発だから、帰国する頃にはほとぼりも冷めているだろう。
 朱煌は足音を忍ばせてあの騒ぎで荒れ果てた部屋に戻ると、非常用に隠してあった靴を履いて、窓からフワリと飛び降り猫のように静かに中庭に降り立った。
「どこ行くの?」
「うわぁッ!」
 心臓が口から飛び出すところだった。
 そろそろと振り返ると、テラスの窓辺にもたれた成子が、じっとりとした視線を投げかけていた。
「あ、あの……そう! 刃にフルーツでも買ってきてやろうかな、なんて…」
「あら、そう。でもフルーツならファンからもらったのがたくさんあってよ」
「そうそう、卵が切れてるんだった」
 成子の咳払いに、ギクリと首をすくめる。
「さっさといらっしゃい」
 朱煌はしゅんとうなだれて、考えただけでヒリヒリしてきたお尻を擦った。




「お約束したわよね。もう黒荻くんをからかったりしないとも、体をオモチャにするような事をしないとも。まして仕返しなんて、もってのほかよ」
 リビングの一人掛けのソファに女王然と座す成子は、また例のヘアブラシを手にしていた。
「覚悟は、いいわね?」
 スックと立ち上がった成子から後退り、朱煌はイヤイヤとかぶりを振った。
「なんで怒ってるのかわかんないよ。あたし、何もしてないもん」
「あらあら。なら何故逃げようとしたのかしら」
「そ、それは…」
「この期に及んでシラを切ろうなんて、悪い子ね」
「だってホント…」
 ヘアブラシの背がソファを打ち、その鋭い音に朱煌はゴクリと言葉を飲み込んだ。
「あなたが黒荻くんの紅茶に俗に媚薬と呼ばれる催淫剤を混入したのは、調べがついてるのよ」
 な、なんでそんな詳しく…。朱煌は次第に顔色を失った。
「あなたが、やったのね」
 怖い。
 普段が優しいだけに、このお怒りには生きた心地がしない。
 とうとう観念した朱煌はおずおずと成子に背を向けたが、その背中を押されてソファの肘掛に腹ばいにされてしまった。
 そして、グイと下着ごとズボンを足の付け根に引き下ろされ、形のよいお尻だけが剥き出しにされる。
「な、成子さん、こんなのヤダ……」
 おしおきというより懲罰に近しい格好をさせられて、朱煌は羞恥心と恐怖感で早くも半ベソで訴えた。
「あんな悪戯をしておいて、お膝の上でお尻ぺんぺんなんてもので済むと思っていたの?」
「だ、だって……」
「ひとぉつ!」
 パアァンッッ!…と濡れ手拭いをはたいたような音と共に、朱煌の足が跳ね上がる。
「痛――――いッッッ!!」
 女優の非力を補うに余りあるヘアブラシの威力に、朱煌の両足は反射的に跳ね上がった。
 何しろ国際派大女優様の持ち物だけあって、ブラシの台は重厚な木で櫛部分は高級な馬毛ときているから、たった一打が恐ろしく重い。
「ふたぁつ」
「うッ…あ!」
 パシイィ―――ン!と、お尻が弾けるように走る痛み。
 三つ、四つ、五つ……と、成子の腕がスイングする度、朱煌は泣き声とも悲鳴ともつかない声を上げ、全身を仰け反らせた。
 何しろ一打間が長い為、前の痛みがこれでもかと存在を主張してから襲い来る次打は、新藤の容赦ない平手打ちに匹敵する。
「ひいッ…あッ、うっ…も、や、成子…さん、許し…て、痛…痛いぃ―――!!」
 こんなに痛いのに、やっと十発。
 すると成子の手が止まり、朱煌は心底ホッとしてヒリヒリと火照るお尻を擦ろうとしたのだが、その手が辿り着く前に、ブラシがピタリとあてがわれてギクリとする。
「まだよ。あんな薬をどこで手に入れたのか、言いなさい」
 冷や汗が吹き出す。
 そんなことを言ったら、チーマー達に黒荻の私刑を依頼したことまで、バレかねないではないか。
「や………薬局…、痛――――い!!!」
 苦し紛れの見え透いた嘘に、ヘアブラシが唸った。
「正直に言わないと、百叩きよ。まさか悪い仲間と付き合っているのじゃないでしょうね」
「つ、付き合ってない、付き合ってない! 連中とは病院抜け出して以来始めて会ったんだから!」
 会ったというか、会いに行ったというか。
「病院? ああ、善に聞いたことあるわね。あなたの武勇伝にえらく憮然としていたわ。じゃあ、そのチーマーからあんな薬を……チーマー?」
 ギクリとした朱煌は恐る恐る成子の顔色をうかがい、見てはならないものを見た気分になった。
 美人女優が演技以外で、こんな般若のような顔をしていいものか…。
「黒荻くん、チーマーに絡まれたって怪我をしていたわね。朱煌、あなた……」
 思わず目をそらした途端、一際強烈な一発を食らって、朱煌はじたばたともがいた。
「痛いよ、痛い――ッッ、ごめんなさぁ~~~いッ!!」
「チーマーに黒荻くんを襲わせるなんて、なんて悪い子なの!」
「ごめんなさいッ、ごめんなさい! もうしません、許して!!」
「あの時もそう言ったわね。それが舌の根も乾かない内にコレなの?! 悪い子! 悪い子! 悪い子!!」
「あぁ~~~~~んッッッ!!!」
 一応加減して打ってはいるが、剥き出しのお尻が痛々しく真っ赤に腫れていくものだから、成子もさすがに可哀想になってきた。
が、ここで許していいものか。
 なにしろこのお姫様は、ブレーキの無い暴走列車に等しいのだから…。
 そろそろもがく元気もなくなって、ソファに額を押し付けてしゃくり上げていた朱煌にため息。
 手を止めてブラシを置くと、朱煌はピョコンと顔を上げた。
「おしまい?」
 期待に満ち満ちた声に、またため息。
 反省の色なしと手に取るようにわかるのに、こちらの怒気を萎えさせる子供っぽい仕草に苦笑がもれる。
「善が甘くもなるはずね。本当に、困った子」
 成子がズボンと下着を戻してやると、擦れて痛いのか朱煌は顔をしかめつつ立ち上がり、そろそろとお尻を擦った。
「あんなこと、もう絶対やっちゃ駄目よ。自分の体を大切になさい」
「は~い」
「軽い返事ね。やっぱり三十くらいじゃ足りないのかしら」
 半ば本気で言うと、朱煌は慌てて傍らのヘアブラシを取り上げて背中に隠した。
「十分! もうしません、深く反省、懲りました、ごめんなさい。あ、コーヒー入れるね」
 そそくさとキッチンに消えた朱煌を見送りつつ、成子は姫護の弁護を反芻していた。
――――姫が私生活においてやたらと悪戯になるのは、公での重責による反動なのです。どうかご理解の上、ご容赦いただきたい……。
 その通りだとは思う。
 朱煌がその身を投じた世界は、成子が想像もつかない厳しさであろう。
「もう、戻ることないわよ、朱煌。このまま善と幸せになりなさい……」
 独り言めいて呟いた成子は、長い髪をゆったりとかき上げた。




 ノックと共に現れた成子に黒荻は慌てて起き上がろうとしたが、彼女はやんわりとそれを遮った。
「そのままでよくてよ。姫護さんに、あなたの血液検査を頼まれているの」
 先ほど姫護が使っていた医療キットから、針のない注射器のようなものを取り出して、成子は黒荻の袖をまくった。
「…あの、ずいぶんきつく叱ってらっしゃいましたね」
「え、ああ、朱煌ちゃん? 起きていたの」
 そりゃあ、あの大泣きの騒ぎでは目も覚める。
「僕のことなんかで、あまり叱らないでやってください」
「あら、誤解しないで。私はあの子が自分を貶めるような真似をしたのを叱ったの。あなたの過去を許したからじゃないし、許す気もなくてよ」
 黒荻は耳朶が熱くなった。
 最近すんなりと会話できるようになっていたから、確かに許された気になっていたかもしれないと、恥ずかしくなったのだ。
「これが採血器ですって。少しピリッとくるらしいけど、我慢してね」
 何をされるのかとビクついたが、採血器の平らな面を押し当てられた時に静電気くらいの痛みを感じただけで、ホッとした。
「えーと、マイナス…てことは、陰性ね。よかった、薬の副作用はないわ」
「……そんな医療器具、見たことないです」
「私もよ。姫護さんに使い方を教わったの。便利よね、これ」
 黒荻は蓋の開いたままの医療キットを覗いた。
 保健医の彼ですら、初めて見る最先端の器具ばかりだ。
「……成子さんは、彼が何者かをご存知なんですね」
 医療キットをしまい、成子はそれを手の中で弄んだ。
「…今更、誤魔化しても仕方ないわね。ええ、よく知っていてよ。あの顔が素顔でないこともね」
 姫護は朱煌を親しげに「姫」と呼んでいた。
 つまり、空白の十年に関わる者。
「では成子さんはもしかして、朱煌がこの十年どこでどうしていたかも、知っているんですか?!」
 肩をすくめることで肯定を示した成子に、黒荻は目を見張る。
「どうして黙って…、いえ、それより何故連れ戻さなかったんです! 善さんがどれほど朱煌の身を案じていたか、よくご存知のはずでしょう?!」
 窓辺に立った成子は、中庭を眺めて苦笑した。
 廊下で立って反省していろと言いつけておいた朱煌が、塀を乗り越えている姿。
「あらあら、あの子にも困ったものね」
「成子さん、答えて……」
「朱煌が嫌いだったからよ」
 思いがけない返答に、黒荻は言葉を失った。
 振り返った成子は、これ以上ないくらい苦々しげに微笑む。
「あの殺人事件から、二年ほど経った頃よ。八つになっていたあの子と、偶然再会したの。その頃の私は善と別れて、でも未練いっぱいで。私ね、善より早く気付いてたの。彼の心を占めているのが、瞳子じゃない、朱煌だってこと」
 小刻みに肩を震わせて、成子は両手で顔を覆った。
「あの子を連れ帰れば、きっと善は喜んでくれる。でも、今度こそ私の入り込む余地などなくなるわ。だから、朱煌が帰るのを拒否したのを言い訳に、善にも教えずここまできた」
「成子さん…」
「それでも罪悪感は容赦なく私を責めた。虎丸と結ばれて幸せになって、罪の意識は深まった。苦しくて、苦しくて・・・!」
 黒荻はベッドから起き上がると怪我をした足を引きずって、成子の肩に触れた。
 成子の慟哭はなおも続く。
「あの子はあそこで幸せになったわ。度々依頼主としてそれを確認することで、私は自分のしたことを正当化しようと努めた。でも…本当はいけなかったのよ! あの子があんな危険の中にこそ、本当の自分を見出すなんて……!!」
 詳しいことは結局わからないままだったが、黒荻は聞くことができなかった。
 けれど思い当たるのは、朱煌が道場で垣間見せた……紅蓮の炎。
 あれが朱煌本来の姿だと、成子は言うのだろうか。
「あー、成ちゃんが浮気してる」
 やおらした第三者の声に、黒荻はギョッとして成子の肩から手をどけた。
 声の主は戸口に持たれてニコニコとしていた、彼女の夫・虎丸であった。




 リビングのソファにかける虎丸の腕の中、やっと落ち着きを取り戻した成子は、彼に口づけて、ゆるゆると息をついた。
「愛していてよ、虎丸」
「僕も。愛してるよ、成ちゃん」
 彼は成子が何に心乱されているかよく知っていたから、優しく胸を貸してやる。
「ところでさ、刃さん、泊まってくの?」
「当分ね。朱煌に看病させるつもり」
「ふぅん…。ね、この際だから聞くけどさ、成ちゃんは朱煌ちゃんが善と結婚することを望んでるわけ?」
「もちろんよ」
「でもさ、それは二人が相思相愛の場合でしょ」
「そりゃそうよ。でなきゃ幸せな結婚とは……どういう意味」
「今回の件聞いてハッキリしたけど、朱煌ちゃんは刃さんに惚れてるよ」
 勢い良く立ち上がった成子は、グイと虎丸の胸ぐらを掴み上げた。
「虎丸、なんなの、それは」
「成ちゃん達は、先入観で見てるから気付かないかもね。でも僕、朱煌ちゃんの十年前を知らないし。だからわかるんだもん」
 成子はしばし唖然としていたが、やがて虎丸を掴んでいた手を離し、髪をかき上げた。
「虎丸…、それ、朱煌は気付いてるの?」
「あの様子じゃ、まだみたいだね」
「じゃ、言っては駄目よ」
「朱煌ちゃんの片翼が善でなくちゃならない理由なんてない…と、僕は思うけど?」
 正論に耳が痛い。
 その通りだ。
 朱煌が幸せなら、相手が誰でも周囲がとやかく言うことではない。
 頭痛の種が、またひとつ増えてしまった……。



 


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