ラ・ヴィアン・ローズ

第14話【誤算】

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       ―1990年―


 答案用紙に赤ペンをサラサラと走らせている黒荻の傍らで、朱煌は固唾をのんでいた。
 彼が時々、顔をしかめたりするものだから、生きた心地がしない。
 採点が済んだ答案を再び見直した黒荻は、チラリと朱煌を眺めやり、やがてニコリと微笑んだ。
「ま、いいだろう。明日から冬休みってことにしてやるよ」
 ホッと胸を撫で下ろす。
 世間は年末年始の休みに入っているというのに、教科書とにらめっこして年越しなどとご免こうむりたい。
「ただし、全教科ことごとくギリギリだってことを、肝に銘じておけよ」
 教科書でポカリとやられた頭を擦り、ふくれ面。
「善さんはずっと泊り込みだって? 刑事ってのも大変だな」
「刃…先生こそ暇そうじゃないか。休みを一緒に過ごす恋人もいないわけ」
 サイホンからコーヒーを注いで黒荻に手渡すと、朱煌は少々嫌味な口振りで尋ねた。
 無言の黒荻に朱煌はピンとくる。
「はぁん、ああ、そう。そういうこと」
「…なんだ」
「罪滅ぼしってヤツ? ずっと女作ってないと見た」
 黙ってコーヒーに口をつける黒荻の肩に、ニヤニヤと肘をついた朱煌。
「じゃあ十年間、ずーっと女ッ気なし。ふうん、へえ、そう。それはそれは愁傷なことで」
 こうして朱煌はしばしば黒荻の罪悪感をなぶって遊ぶ。
 勉強中は頭が上がらない仕返しで、彼もそうと知っているから、いつも黙って聞き流している。
「なら、随分たまってるねぇ。なんならお相手しましょうか、先生?」
 くすくすと耳元で囁くと、やおらスックと立ち上がった黒荻は、そのまま部屋を出て行ってしまった。
「ざまぁみろ。偉そうにしてるからだよ」
 してやったりと勝利の美酒ならぬコーヒーを煽った朱煌は、椅子にかけてデスクに足を投げ出した。
「にしても、面白味のない野郎だぜ。ことごとく知らん顔で流しやがって。後悔してます? 改心しました? けッ、あ~つまんねぇの」
 ブツブツと独りごちて、空になったカップをデスクに置こうと体を起こした時、勢い良くドアが開いたのに驚いて、危うくひっくり返りそうになった。
 体勢を立て直し椅子を立ち振り返ると、成子が立っていた。
 しかも、初めて見る怒りの形相で、何故かヘアブラシを握り締めている。
「成子さん、どうしたの?」
「お尻を出しなさい」
「えッ、な、なに……」
「後ろを向いてお尻を出すッ、早く!」
 勢いに押されるように成子に背を向けた途端、したたかブラシでお尻をぶたれて飛び上がる。
「痛――――いッッ!! いきなり何すんのさ、成子さん!」
「自分の胸にお聞きなさい」
 そんなこと言われても、いつも朱煌を猫っ可愛がりしてくれる成子を、怒らせるようなことをした覚えは……。
「あッ、刃のヤツ、チクったの?!」
「ええ、聞いたわ」
「汚ねぇッ、あの卑怯モン!」
「汚いものですか、卑怯なものですか。よく報告してくれたと、感謝しているわ」
 成子は椅子にかけると、その膝に朱煌を腹ばいに押しつけ、またブラシを数回振るった。
「痛い痛い痛いッ、やだよ、放して!」
「反省するまで許さなくてよ」
「なんで刃の味方するのさッ」
「悪いのはあなただからよ。今回ばかりは彼を少し見直したわ」
 ブラシがうなる度、たまらず悲鳴を上げる。
 多分、非力な女優相手なら膝から抜け出すなど簡単なのだろうが、成子にはどうも逆らいにくく、ついされるがまま。
「彼はからかわれて怒ったのじゃなくてよ。あなたのしたことを悲しんでた。自分の責任だと、苦しんでた。そして、同じ女性として、きちんと言い聞かせてやって欲しいと頼まれたの」
 言い聞かせるよう頼まれて、どうしてお尻叩きに変換されてしまうんだ!
「だって本気じゃないもんっ、冗談で…痛ぁい!」
「悪い子! 体を弄ぶような冗談を、言うなと言っているのよ」
「わ、わかったよ、だから許して!」
「約束なさい。もう彼をからかったりしないの」
「約束します、もうしませんッ。痛いよぉ、ごめんなさぁい!!」
 ピタリと止まったブラシがまた振るわれない内に成子の膝から逃げ出して、真っ赤に腫れているであろうお尻を擦る。
「痛い~~、そんなもの使うなんて、反則だよ」
「仕方ないでしょ。女優の手を腫らすわけにはいかないもの」
 ヒラヒラと白魚のような手を 振ってみせる成子に、朱煌は恨めしげな視線を投げかけた。




「――――失敗しました、だとぉ?」
 ユラリとカウンター席を立ち上がった朱煌。
「す、すいません! あいつ、案外強くて…」
 朱煌が蹴りつけたカウンターの椅子がグニャリと形を変えたのに、チーマー三人組は震え上がった。
「私は何と言った? あいつを二、三ヶ月は立ち直れないくらいにシメてこいと、言わなかったか」
「か、勘弁してください! 今すぐ頭数揃えて、もう一度…」
「もういい!」
 まったく見かけ倒しの連中だ…と苛立ちを覚えて、朱煌は爪を噛んだ。
 密告野郎の黒荻に仕返ししてやりたいが、直接手を汚すのは得策ではないので、以前遊んでやったチーマー達に黒荻私刑を任せたのに、この様!
 気に入らない。
 何が一番気に入らないって、黒荻が成子の信頼を徐々に回復しつつある…ということだ。
 何とか一泡吹かせてやりたい。
 朱煌の言動で黒荻の心が揺れ動くのが見たい。
 彼のことを考えると、意地の悪い気分で胸がいっぱいになる。
 ムカムカしながら手近にあった壁を殴りつけると、掛けられていた額縁が落ちてバラバラになり、薬の包みらしき小袋が床に散らばった。
「…ねぇ、これなぁに?」
 猫なで声で尋ねると、三人は顔を見合わせて「お前が言えよ」となすり合っている。
「サッサと答えろ!」
 朱煌の一喝で飛び上がった彼らは、声を揃えて「媚薬です!」と叫んだ。
「媚薬~?」
 怪しげな響きだが、どこまで本当だか。
「で、効果の程は」
「そいつぁもう! どれだけ抵抗してた女だって、そいつ飲ませて十分もすりゃ前後不覚になって乱れに乱れ…」
 調子に乗ってしゃべっていたひとりをチラリと流し見ると、彼は硬直してしまった。
「女だけか」
「い、いえ、俺たちもたまに使いますけど…」
 これは面白いものを見つけた。
 朱煌はニヤリとして一包拾い上げると、ポケットにねじ込んだのだった。




 その日の夕食後、成子とお茶の時間を楽しんでいると、インターホンが鳴った。
 セキュリティーのカメラに映っていたのは黒荻で、思わずニンマリした朱煌。飛んで火にいる…とは、まさしくこのことだ。
 玄関まで出迎えた朱煌は、彼が顔に痣をつくっているのを見て、白々しく目を丸くした。
「どうしたのさ、それ」
「お前は無事のようだな」 
 ホッとしたような黒荻に、ふと罪悪感。
 彼は闇討ちに訪れたのが例のチーマーと気付いて、朱煌の身を心配してやってきたらしい。
「何かあったの」
「この前のチーマー共を覚えてるか。連中、仕返しのつもりかヤキ入れにきやがった。お前も十分気をつけるんだぞ」
 それだけ言って立ち去ろうとした黒荻を引きとめ、お茶に誘う。
 朱煌と二人きりになることを拒んだ彼に成子の在宅を伝えると、それなら…と頷いたのでリビングに促す。
「まあ、黒荻くん。どうしたの、その顔」
 純粋に心配そうな成子を見て、朱煌は心の中で舌を出した。
「いえ、ちょっとチーマーに絡まれて…」
「それは災難だったわねぇ。どうぞ、座んなさい」
 朱煌はキッチンで黒荻の紅茶を用意すると、引き出しに隠してあった例の薬を取り出すと、サラサラと紅茶に混ぜる。
 少し濃い目に紅茶を淹れたので香りも損なわれず、怪しまれることはなさそうだ。
 それを黒荻の前に置くと、何の疑問も抱くことなくそれを口に運んだ彼を見て、ガッツポーズしたいのをこらえるのが大変だった。
「ねえねえ、刃。後で勉強みてくれない? ちょっとわかんないとこあってさ」
 ちょっとわざとらしかったかな…と唇をなめる。
 成子が怪訝そうな顔をしているので、なおさらだった。
 しかし、黒荻はすっかり教師の顔で、ニコリと笑う。
「自習したのか、感心だな」
「そ。だからそれ飲んだら二階に来てね」
 ウキウキしながら部屋へと戻った朱煌は、上着を脱いで薄手のニットになるとグイと首元を引き伸ばして肩をむき出しにした。
「おっと、そろそろ効果が出ちまう。成子さんが襲われない内に、呼ばないとな」
 ドアから顔を覗かせて黒荻を呼ぶと、彼がリビングから出てきて階段を上ってくる。
 さあ、来い。
 成子さんからの信頼を失墜させてやるぜ……。
 やってきた黒荻は、少し顔色が紅潮気味だった。
 朱煌を見たが、ふと目をそらす。
 汗ばんだ額で、薬の効果が見て取れた。
 よしよし。
 薬に操られて朱煌に襲いかかったのを見計らい、悲鳴で成子を呼べば、彼女は再び黒荻を軽蔑するようになる。
 なぁに、子供の頃とは違うのだ。
 押し倒されたって、簡単に跳ね除けられる。
「刃、どうしたの。そんなに汗かいちゃって」
「い、いや…俺、そろそろお暇するよ」
「なんで? 勉強教えてくれるんでしょ」
 息遣いが荒くなっていく黒荻を、下から覗き込む。
「よ、よせ…!」
「ふふ、どうして…?」
 刹那、黒荻の手が朱煌に伸びたかと思うと、そのまま床に倒れこむ。
 しかし、計算外の事態が発生した。
 跳ね除けるどころか、声も…出ない!
 全身が恐怖で凍りつき、足掻くのがやっと。
 怖い、怖い、怖い……!
 子供の頃に黒荻から受けた体験は、朱煌自身が考えていた以上に深いトラウマとして刻み付けられていたのだ。
 太ももの内側に彼の手が滑り込んだことで、朱煌はビクリと手近にあった椅子を弾き倒す形となり、大きな音。
 それで我を取り戻したらしい黒荻は、ガタガタと震えながらも朱煌の腕を掴んだ。
 そこへ物音に驚いた成子が駆け込んできて、ふたりの有様に顔色を失う。
「黒荻くん?! あなた、なんて事を……!」
 黒荻は成子を見てまた苦しげにうめくと、激しく頭を振って、朱煌を引きずるようにして彼女に押しつけた。
「出て、早く…、早く! ドアを閉めてください!」
 勢いに負けてドアを閉めた成子は、呆然としている朱煌を抱きしめた。
 ドアの向こうでガラスが割れる音と共に、黒荻の絶叫が響く。
「黒荻くん! 何してるの、どうしたというの!?」
 尋常でない中の様子が気になれど、恐ろしくて開けられない成子は、小刻みに震えている朱煌を揺さぶった。
「朱煌ちゃん、一体どうしたというの」
 言える訳ない。というか、まだ声が出ない。
 しばらくするとドアの向こうが静かになった。
 息をのみ、そっとドアを開けた成子は愕然とした。
 朱煌も顔を引きつらせる。
 そこには割れた窓の下で青ざめた黒荻が、血に塗れてグッタリと壁にもたれて座り込んでいた。
 彼の太股に、深々と突き立った大きなガラス片。
 そうすることで、正気を保とうとしたのだろう。
「しっかりなさい! 今、救急車を呼ぶわ」
「駄目です…、事を大きくしないで…」
 かすれる声で哀願する黒荻に、成子はガラスを叩き割ったであろう手をそっと触れた。
「これくらいならともかく、足の傷はちゃんとお医者様に診ていただかないと…」
 頑なに首を横に振る黒荻。
 彼は気付いたのだ。
 朱煌が何かを仕掛けたということを。
 病院へ行ったりしたら、事が高城に知れてしまうから。
「……まさか、朱煌ちゃん?」
 成子に睨まれてビクリとした朱煌に、黒荻が弱々しく微笑んだ。
「違う…、また僕が理性を失っただけ……」
 胸がつまる。自分を庇って悪者になろうとする黒荻。
 こんなことになるなんて、考えもしなかった悪戯だったのに。
 その時、背後に人の気配。
 そこには出かけていた姫護が苦々しげに惨状を眺めていた。
「ドクター・アイフェン!」
 希望を見出したかのように、成子が叫ぶ。
 姫護は一旦その場を離れると、すぐに戻ってきて黒荻の傍らに膝をついた。
 彼は手にしていた小さな金属の箱を開け、注射器を取り出して黒荻の太股に刺した。
「麻酔です。これから傷口を切開して細かな破片を摘出し、縫合します。マダム・アクトレス。彼が横になれるベッドを用意しておいてください」
 弾かれるように部屋を出て行った成子。
 姫護は後退っている朱煌を鋭く呼び止めた。
「姫、あなたはここにおいでなさい。そしてご自分のなさったことを、じっくり考えるのですよ」
 朦朧とする意識の中でも、黒荻は驚きを禁じえなかった。
 テキパキと指示を飛ばし、手早い処置に完璧な医療キット。
 ここにいるのが、黒荻の知る姫護でないのは確かだった。

 


「今晩は発熱があるでしょうが、一晩安静にしていれば問題ありません」
 タオルで手を拭いながらリビングにやってきた姫護を見て、成子は安堵の息をついた。
 姫護は医療キットの中から金属のプレートを取り出すと、黒荻のカップはどれか尋ね、教えられたカップに残っていた紅茶を一滴、プレートに垂らした。
「やはり薬物が混入されてますね。成分は…麻薬ではないし、習慣性もない。だが、劇薬だな。後で血液検査した方がよさそうだ」
 両手で顔を覆い、ため息をついた成子。
「まったく、あの子は…。きっとこの間の仕返しだわ」
「というと?」
 先日の一件を語って聞かせると、姫護は苦笑してソファにかけた。
「それですね。この薬は俗に言う媚薬というものです。姫さまは黒荻さんに自分を襲わせて、それによって彼へのあなたの軽蔑を誘うおつもりだったのでしょう」
「それで彼にあんな怪我を負わせるなんて!」
「いや、あれは薬に操られるのを拒んだ黒荻さんの精神力が、姫さまにとって不測の事態を招いた結果ですよ。まあ、後先考えない悪戯で、なお性質が悪いですが…」
「…あの子は?」
「黒荻さんについてらっしゃいます。姫さまもかなりショックを受けてらっしゃるご様子ですので、どうか、今はそっとしておいてください」
「………本当に、ドクターは朱煌に甘くていらっしゃるのね。レーヌ・ド・ローズが嘆くのもわかりましてよ」
 怒り心頭の成子は、呆れ返って姫護に顔をしかめて見せた。




 落ち着いた呼吸を取り戻して眠る黒荻に、心の底からホッとする。
 姫護は傷の心配はいらないと言っていたし、本当に良かった。
「刃、刃、ごめんね。ごめんなさい…」
 そっと囁く。
 すると、彼の胸に置いていた手を握られて、ビクリと体が強張った。
「…怖がらなくていい。もう襲ったりしないよ」
 優しい声の色に、涙がこぼれる。
 包帯の巻かれた手に髪を撫でられ、ますます涙が止まらない。
「ごめんなさい、ごめんなさい…」
「いいよ、もう大丈夫だから。それに、俺がお前にしてきたことを思えば、当然の報いだ」
「刃…」
「無理することない。お前が俺をどれだけ憎んでも嫌っても、誰もお前を責めしないよ」
 ひどくショックだった。
 例えようもない寂寥に襲われ、必死でかぶりを振る。
「違うよ! 違うんだ。そんなんじゃない」
「朱煌……?」
「だって、刃が本気で相手にしてくれないから、なんか、悔しくて…」
「え、別にそんなこと…」
「そうだよッ。表面で優しくあしらってるだけじゃないか! 刃にはもっと、あたしのことで心を動かして欲しいのに……!」
 朱煌はおそらく自分が何を言っているのかわかっていないだろうが、しばし呆然とした黒荻は、まさかの思いに胸を押さえたのだった。



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