ラ・ヴィアン・ローズ

第12話【平凡】

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     ―1990年―


 朱煌は幸せだった。
 あの高城善積という人に、自分たちはもうすぐ結婚するんだ……と言われた時、じんわりと胸が温かくなった。
 彼をよく知りもしないのに、こんな気持ちになる自分が不思議だ。
 不思議といえば、ここがどこで、自分を『朱煌』と呼ぶ人々が誰で、そして何より自分が何者であるのか見当もつかない濃い霧の中にいるようなのに、まるで心細さがない。
 あの人……高城がいてくれればいい。
 それに、記憶の中に何かとてつもなく辛い思い出がある気がしてならない。
 それはきっと高城との別離を意味するもの。
 だから、思い出したくない。
 記憶のすべてが辛く苦しいものではないと思うけれど、でも高城と別れなければならないような記憶なら、丸ごと忘却の彼方にあってもよいとすら考えていた。
 ただ・・・時々、夢を見る。
 もう一人の朱煌が、語りかけてくる夢。
 白と黒の世界に、彼女だけが朱い。あれは血の色。
 血塗れの彼女は同じく血に染まった刀を握り、いつも厳しい表情で朱煌を叱咤する。
――――いつまでそうしている気だ。こんな所に私を閉じ込め安穏の時を貪って、すべてを無に帰するつもりか。
「違う。そんなんじゃないよ。ただ……」
――――ただ…何だと言うのだ。いいか、お前が決めたことだ。お前が決めて、私を呼び覚ました。
「わかってる……! もう少しだけ、待っててよ」
 もう一人の朱煌は刀を地面に突き立てた。
 地より噴き出した鮮血。白と黒の世界が一面、朱に染まる。
 それはいつしか薔薇の花弁となって、二人の間を吹き荒れるのだ。
 もう一人の自分は、炎の中にいるように見えた。
 あの夢の中ではすべて思い出しているのに、目覚めるとやはり何も覚えていない。
 けれどどうしようもなく苦しくて、隣で眠る高城の胸に頬を寄せると、彼は強く抱きしめてくれる。
 寝ぼけてしていることであれ、朱煌にはそれで十分だった。
 そういえば、彼は何故時々思い出したように冷たくなるのだろう。
 きっと忘れた記憶の中に答えがあるのは、ぼんやりと感じる。
 突き放されると寂しいけれど、平生の厳しくも優しい態度で、さほど苦にはならなかった。
 高城が好きだ。彼といると、心が安らいだ(少々、亭主関白なところはあるが)。
 ずっとこのままでいたいな……と思うが、もう一人の自分は、それを拒んでいた。




 ある日、高城がひとりの男を伴って帰ってきた。
 朱煌も見たことがある、確か病院を抜け出してチーマーで遊んでいた時、高城と一緒に乗り込んできた男。
「黒荻刃くんだ。今日からお前の家庭教師をしてくれる」
「家庭教師?」
「勉強を教えてくれるんだよ。日本語の読み書きも含めて…な」
「……ええッ?! なんでそんな……」
「今度から学校へ通うからさ、お前が」
 この間から高城と新藤がなにやらヒソヒソやっていると思ったら、そんなことを企んでいたのかと、朱煌はげんなりした。
「やだ。学校なんて行かない。だから勉強もしない」
 プイとそっぽを向くと、高城が平手に息を吹きかけながら、
「いいか。もう一度だけ言うぞ。高校の編入試験に備えて、刃に勉強と日本語みてもらえ」
 ・・・脅迫だ、こんなの。
 首を縦に振らなきゃ、いつもの・・・てことじゃないか。
「じゃ、二階へ行ってろ。俺たちは成子に会ってくるから」
「……はぁい」
 渋々階段を上り始めた朱煌は、手すり越しに彼らがリビングに消えたのを見届けて、ニヤリとした。




「言わなかった? 私はこの男が大嫌いなのよ、善」
 女王然とソファにもたれ凍てつく瞳で、成子は痛烈に言い放った。
 黒荻はうつむくばかりである。
「いくら善に頼まれたからって、よくノコノコ来られたものね」
「成子、よせ」
 高城がたまらず間に入ると、刺すような視線についたじろぐ。
「あなたもあなたよ。あの子の為に、ですって? 所詮あなたも男よね。女の気持ちなど、お構いなし」
「……罪は償えないというのか」
「償う? 朱煌の記憶がない内に、偽善的な罪滅ぼしで済ませてしまおうというの」
「そういうことじゃないだろう」
「そういうことよ。いい? この男はたった五つの朱煌を陵辱したの。それが償いたいというのなら、簡単よ」 
 鼻で笑った成子は、手にしていた台本を床に叩きつけた。
「朱煌の前に二度と現れない。それだけ」
 舌打ちした高城は、黒荻を戸口へ押しやった。
「朱煌のところへ行ってろ」
「善ッ、勝手な真似しないで。ここは私の家よ!」
「いいから行け」
 戸惑いつつ黒荻はリビングを出て行った。
 歯軋りせんばかりの成子に向き直り、高城は床の台本を拾い上げる。
「頼むよ。あいつにチャンスをやってくれ。あのふたりの心の溝が埋まれば、朱煌も救われる気がするんだ」
「朱煌の記憶があればの話でしょ。こんなのフェアじゃないわ」
 吐き捨てるように言った成子が、手渡された台本を握り締めたとき、慌ただしく黒荻が戻ってきた。
「善さんッ、朱煌がいません!」
「なにぃ?!」
 しまった、逃げられた。
 こうなることを見越して姫護を見張りにつけておいたのに…。
「姫護はどうした、姫護は?!」
「え、誰もいなかったですよ」
 逃げた朱煌を追ったのか、それともまさか、一緒にフラフラしているのではあるまいか。
 嘲笑する成子を敢えて無視し、高城は探しに出ようとしている黒荻を遮った。
「放っておけ。その内に戻ってくるさ」
「でも……」
「あいつが帰る場所はここだけだ。ま、帰ったらただじゃおかんがな」




 うっとおしい。ただ歩いているだけなのに、やたら声をかけられる。
 芸能プロダクションのスカウトマンとやらだ。
 ジーパン姿で女には見えないらしく、逆ナンというのにも出くわした。
「………お前もさ、いつまでついてくるつもりだよ」
 家からずっと、つかず離れずの距離を保ってついてくる姫護。
 朱煌の脱走に何も言わず、尾行しているつもりでもなさそうで、高城に連絡する素振りも見せない。
 怪訝な顔の朱煌に、彼はゆったり微笑んだ。
「あなたが消えろとおっしゃるなら、それに従います」
 変なヤツだと思う反面、なんだかしっくりくるこの感じ。
「……別に、構わん」
 うっとおしくはない。むしろ、当然のことのよう。
 歌舞伎町の道端で話す外国人たちに混じって、しばし談笑を楽しみ時間を潰す。
 意気投合した彼らに連れられてバーに案内されると、そこにはあらゆる国籍の老若男女が集い、まるで小さな地球のパーティーだった。
 なんだか懐かしく目を輝かせる朱煌に、姫護がそっと耳打ちした。
「どうか、ご自分の判断でお過ごしくださいますよう……」
 羽目を外すなということだろう。
「わかってるよ、姫護、お前も来い」
 楽しかった。
 時間が瞬く間に過ぎていく。
 その中で、自分が英語のほかにも何ヶ国語かを話し、あるいは聞き取れることに気づく。
 まったく、自分は一体何者なのか。
 姫護に袖を引かれた時、とっくに午前一時を回っていたのには、さすがに血の気が引いた……。




「ごめんなさいッ、ごめんなさいッ、ごめんなさあぁぁぁい!!!」
 高城の膝で腹這いにされて繰り返して喚いてみても、平手が止むことはなく、朱煌の白かったお尻は、見る見る真っ赤に腫れ上がっていく。
 いつもより平手が下るスピードも早いので、一打の痛みが引かないうちに追い討ちのごとき平手が据えられ、痛いなんてものじゃなかった。
「はうッ、やッ、も…や、だ、痛ッ、あ~~~~んッッ!!」
 脱走した上に午前様で一応覚悟はしていたのだが、こう容赦の欠片もなく打ち据えられたら、とにかく膝から逃げ出したい。
 ズルズルと前に這ってみるが、首根っこを掴まれて引き戻され、さらに強く平手を振るわれる悪循環。
「ごめ、ごめん、なさいッ、もうしません、もうしないから、許し……痛ぁ――いッッッ!」
 高城が無言のままなので、会話の流れでおしおきが終了するパターンには持っていけず、ひたすら謝るしか手立てなし。
 回数宣告もされていないから、一体いつまで叩かれるのかと不安にすらなって、とうとうポロポロと涙がこぼれてきた。
 その時、ノックの音。
 ドア越しに声をかけてきたのは黒荻だった。
 彼は高城が朱煌のお尻を丸出しにしようとした瞬間に、そそくさと廊下に出て行ったのだ。
「あの、善さん。僕がそんなことを言える立場ではないのですが……どうか、もうその辺で勘弁してあげてくれませんか」
 やっと高城の手が止まる。
 黒荻の複雑な胸中を察してのことだが、そんなことが朱煌にわかるはずもなく、「どうせ止めるならもっと早く止めろよ、役立たず!」と内心で毒づいていた。
「……どうする?」
 どうするって、そりゃ許して欲しいに決まっている。
「反省してます! 海より深く山より高く!」
 パンッと予期せぬ平手に、朱煌は悲鳴を上げて全身を仰け反らせた。
「その軽さが信用ならんのだ」
「本当だもん~~!」
「なら、高校編入は決定。刃の家庭教師も承諾だな」
「そ、そんな……痛ぁいッッ!」
 脅迫だ……。
「……………はい」
 もはやそう応じるしかない朱煌が言うと、高城はやっと優しい顔になり、ズボンを戻してやって膝に座らせた。
 下着がすれると痛い…。座っても痛い…。
 べそをかいてお尻をそっと擦る朱煌の髪を高城が撫でた。
 お尻は痛いけど、こうして髪を撫でられるのは、好き。
「朱煌、平凡てわかるか」
「そりゃ、知ってるけど…」
「その時々の流行追ってバカやって、それを大人にたしなめられて、反抗して……それがいつか苦いけれど懐かしい思い出になる。そういう子供時代を、俺はお前から取り上げたくはないんだよ……」
 そっと抱き寄せられて、朱煌は高城の言葉に耳を傾けていた。
 この人が誰か、朱煌は知らない。
 でも、この人が好きだ。
 許されるのなら、このままずっと、この高城善積という人と、同じ時間を歩いていきたい………。




「こら、集中せんか」
 ここのところ例の夢を毎晩見るので寝不足気味の朱煌は、黒荻に参考書で頭をポカリとやられてむくれた。
「こっちだって、やりたくてやってる訳じゃないんだよ」
「だろうなぁ」
 先程やらせた問題集の結果を眺め、黒荻が苦笑する。
「子供の頃のお前も、好き好んで勉強してた訳じゃなかったし、その反動かな」
 黒荻の呟きを聞きとめて、朱煌は興味深げに彼を見上げた。
「へえ、あんたもあたしを知ってるんだ」
「……ちゃんと先生と呼ぶこと」
 話題を逸らしたのがわかって、ますますつつきたくなる。
「教えてよ、先生? あたしの過去に、どう関わっていたのか…」
「……じゃあ、問題集一問正解につき、エピソードひとつってことでどうだ」
 朱煌は舌打ちしてそっぽを向いた。
 本当は、黒荻が垣間見せた辛そうな表情に、聞いたことを後悔したのだ。
 黒荻は教え方が上手い。
 昔勉強させられていたいた頃は……。
――――馬鹿ッ、なんでわからないのよ! さっき教えたばかりでしょう!
 突如頭に響いたヒステリックな叱責。
 怖い。
 でもやらなきゃ…。
 頑張って、頑張って、気に入ってもらわなきゃ。
 やらなきゃ…、やらなきゃ…。
「ここはな、さっきの公式を代入すれば……」
 不意に耳元に感じた黒荻の息づかいに、吐き気を覚えて全身が強張った。
 恐怖が弾けて、黒荻を突き飛ばす。
 朱煌の行動の意味は黒荻の方がよくわかっているから、我に返り謝ろうとした朱煌を優しく遮り、「休憩しよう」とだけ言って部屋を出て行った。
 当の朱煌は訳がわからない。
 ただ、また割れるような頭痛。
 眼前に、夢の中の自分が立っていた。
 彼女はいつものように厳しい表情ではなく、むしろ哀れむように朱煌を見下ろしている。
『いっそ、思い出してしまった方が楽だろうに…』
「う…るさい…」
『頑固なヤツだ。パパやママンが恋しくはないのか』
 意味はわからない、が、ひどく心が揺らぐ。
『アイフェンとて、いつまでもいてはくれまい。それでもいいのか』
 こいつ……戦法を変えてきやがった。
「わかってるさ! しゃべるなッ、頭が割れそうなんだ!」
『だったらさっさと思い出せ!』
「気の短いヤツだな!」
『お互い様だろう』
 相手は自分なのだから、それもそうかと苦笑する。
 彼女がニヤリとする。
 しまった、気を許してしまった。
 怒涛のように脳裏に流れ込んできたイメージ。
 これは、失われた記憶。
「いやだッ、待って! もう少しだけ待ってよ!」
『待てない。戦いが始まる。私は行かねばならない』
「お願いだ、待って…………朱雀!!」
 真っ先に思い出したのは母の顔。
 母の為に、愛する母の為に、自分は何をした? 
 一面の血の海。
 そして紅蓮の炎。あれは、あれは一体……。
「朱煌!」
 その声が、記憶の渦に溺れる朱煌を引き戻した。
 もう、もうひとりの自分・・・朱雀はいない。
「大丈夫か」
 高城を振り返り、朱煌はあふれる涙で顔をくしゃくしゃにした。
 それをただ黙って抱きしめてくれる高城のぬくもりの、なんと心地よいこと。 
 ごめんね、朱雀…。
 朱煌はそっと呟いた。




 朱煌の記憶が目覚め始めた。
 羽生瞳子の娘、朱煌という名であること。
 そして黒荻がかつての母の情夫で、自分に屈辱を与えた男であること。
 まだ高城と出会う前の記憶。
「ね、今晩泊まっていく?」
 瞳子の声に我に返る。
 そうだ、瞳子が長期滞在するホテルにやってきていたのだ。
「いや…もう帰るよ」
 成子夫妻は海外の映画祭出席で揃って不在だし、姫護もぼんやりしているとはいえ男だ。
 二人きりにするのははばかられる。
「……最近のあなた、変わったわね」
 心臓が跳ねた。瞳子が鋭いのか、自分が他愛ないのか。
 変化の原因は、もちろん朱煌。
 復讐だの憎むだの大仰なことをのたまいながら、この様はなんだ。
 あの頃と同じに、朱煌が愛しくて仕方ない自分がここにいる。
 そんな思いを振り払うべく瞳子のもとに通っているのに、結局、心ここにあらず。
「私を愛してるなんて、嘘ばっかり。あなたは私を透かして、誰をみてるのかしら…?」
 髪をかき上げてクスクスと笑った瞳子は、やおら手近にあったグラスを高城に投げつけた。
「さっさと消えて! 今のあんたを見てるとイライラするわ。まるで……朱煌といた頃のあんたを思い出すのよ」
「……なあ、瞳子。どうすれば、朱煌を許してやれる?」
 母のことを思い出した朱煌は、何故今一緒にいないのかを、とても気にしている。
 母恋しさに、涙ぐむことすらあるのだ。
 そんなあの子が不憫で、思わず知らず出た言葉だった。
「もういいじゃないか。無実は証明されて、汚名も晴れたんだ。朱煌は怖くなって逃げただけで、罪をなすり付ける気なんかなかったんだよ、きっと」
 見る見る瞳子の顔が引きつっていく。
 高城はハッと口を押さえた。
「とうとう本音が出たわね」
「瞳子……」
「私はあの子のせいで死刑宣告を受けたのよ。あの瞬間の絶望感。全身の血が凍る恐怖感。あなたに想像できる?!」
 瞳子の裁判には高城も行った。
 そして主文が読み上げられ、判決が言い渡された瞳子を、今も鮮明に覚えている。
 狂ったように朱煌を罵り、引きずられるように退廷する彼女の、血を吐かんばかりの慟哭。
 震える瞳子の肩を、高城はそっと抱き寄せた。




 高城が遅くなると言っていたので、朱煌は羽を伸ばして繁華街をブラついていた。
 母と歩いたことのある道だ。
 あれは朱煌が五歳の誕生日。
 父が日本勤務となったので、母もシカゴから日本に戻ったのだが、いつも誕生日には親子三人で食事をするのに、その時は違った。
 本妻の娘が入院して「行けない」と連絡が入り、母は荒れ、朱煌を連れて黙々とこの道を歩き続ける。
 朱煌は見えてきた踏切の前で立ち止まった。
 あの時の母と同じように……。
 思いつめた表情で踏み切りを見つめていた母は、警報機が鳴り出すと、一歩、また一歩と踏み切りに歩を進めた。
 朱煌の手をしっかり握り締めたまま……。
 不思議と怖くはなかった。
 いつもどこか冷たい母が、こんなにも力強く手をつないで連れて行ってくれる所なら、ついていこうと思った。
 その時だ。黒荻刃が現われたのは。
 彼が朱煌を奪うように抱き上げ、瞳子の腕を引っ張った。
 電車は過ぎ去りは母泣き崩れ、黒荻は朱煌を抱いたまま黙ってそれを見下ろしていた。
 おかしな男だと幼心に思ったものだ。
 瞳子を諭すでなく慰めるでなく、何も言わずに彼女が泣き止むまで傍に立っていた。
 それが二人の関係の始まり。
 黒荻は羽生家に入り浸り同棲が始まり、大学受験も捨てて瞳子のヒモに成り下がった。
 朱煌はそれが気に入らず、ことあるごとに黒荻に意見した。
 大学へ行くか、働くか、とにかく母の負担になるな…と。
 だがそれは黒荻の若き不安定な心の逆鱗に触れた。
 そして……。
 朱煌は震える吐息をつくと、ふと背後の気配に振り返った。
「……刃」
 さすがに驚いたが、ニヤリとして踏切を指差す。
「あたしが何考えてたか、わかるな。なんであの時、あたし達を止めた」
「なんでって……目の前で人が飛び込もうとしてるのを、黙って見てる訳にも…」
 朱煌は声を上げて笑うと、黒荻の胸倉を掴んだ。
「人道的な見解だ。自分のしたことにも、その見解は当てはまるのかな」
 唇をかんだ黒荻は、ふと顔をしかめた。
「呑んでるのか」
「あたしの事に口出しするな。耳障りだ」
 とどめのセリフだった。
 昔、黒荻が朱煌に向けてよく吐き捨てたのと同じ言葉。
 黒荻はため息をついて、朱煌の手をポンポンと叩く。
 手を離してやると、彼は乱れた襟元を正してチラリと朱煌を流し見た。
「わかった。俺が言えないなら、善さんに言ってもらうことにする」
「――――ちょっと待て」
 ニヤリとした黒荻。
 形勢は完全に逆転した。
「俺は注意できる立場じゃないもんな。そうだそうだ。やっぱり善さんの仕事だ」
「てめぇッ、卑怯だぞ!」
「卑怯かどうかは、善さんが判断するさ」
 顔を真っ赤にしている朱煌に、黒荻はちょっといじめすぎたかと反省し、そっと頭を撫でた。
「言わないよ。でも、早く帰りなさい。門限破ったら、また叱られるぞ」
「遅くなるって言ってたもん」
「いや、もう帰ってるだろ? さっきバス停で会ったぞ」
「なッ、なんでそれを早く言わねぇ!!」
 今から急いで戻れば、門限にはギリギリ間に合う! 
 猛ダッシュで走り去る朱煌の背中を呼び止めるが、もう黒荻の声は耳に入らないようだ。
「……門限セーフでも、その酒臭さなんとかしていかないとマズイって……言おうとしたのに…。あいつって、結局善さんにお尻叩かれる運命なんだなぁ……」




 罪状・未成年飲酒。罰則・尻叩き五十回の宣告。
「もうしませんーーー! ごめんなさあぁ~~~~い!!」
 今日も朱煌の悲鳴が周防邸に響き渡ったのだった……。




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