ラ・ヴィアン・ローズ

第9話【炎上】

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       ―1980年から1990年へ―


 それから先のことは、霞がかかったようによく思い出せない。いや…思い出したくない。
 橘が立ち去り、しばらく公園のベンチでぼんやりとしていた。
 そして、やっと重い腰を上げて寮に戻ったのだが……門をくぐろうとした途端、中から寮生たちが飛び出してきたのである。
「あ、善! 見ろッ、火事だ、火事!!」
 振り返り、声を失う。
 濛々と天に上る黒煙の下にあるのは、朱煌のアパートではないのか?!
 踵を返し、アパートを目指した高城がやがて目にしたものは、野次馬の人だかりに、やっと到着した消防車。
 目まぐるしく消火活動に奮闘する消防士たちがホースを向ける先は……やはり、朱煌のアパート……。
「あ・き・ら……、朱煌ッ、朱煌!」
 轟々と燃え盛るアパートに踏み出そうとした高城は、防火服の消防士に腕を掴まれた。
「危ない! 下がって!」
「離せ! 中にいるんだ、俺の…俺の……!!」
「消火の邪魔なんだ!」
 引く気配を見せない高城に苛立たしげに消防士が声を張り上げた。
 その時、聞きなれた声に名を呼ばれ、やっと我に返る。
「…ちゃん、ぜ、ん、ちゃん…、善ちゃん……!」
 振り返ると、消防車のすぐ脇でうずくまる瞳子の姿。
 すすけた衣服には……赤い、血?!
「瞳子! 一体何があったんだ! それはお前の血じゃないな。朱煌は?! 橘はどうした?!」
 小刻みに震える腕が指し示したのは、業火に飲みこまれるアパート。
「―――――あの子が……、あの子が、朱煌が…殺した……」
 どこか目の焦点が定まらないまま、瞳子がうわ言のように呟いた。
「何?! 何言ってるんだ、瞳子?!」
「あの子が…朱煌が…橘を……あの人を……!!」
 にわかにざわめいた野次馬の声。
 心臓が、凍る。
 アパートを包む紅蓮の炎を背に歩いてくる小さな朱煌。
 焼け焦げた服は、焔よりも朱い……血で染め上げられて。
「―――――朱煌……!!」
 高城の声に、朱煌の歩がビクリと止まった。
 立ち尽くし、震える瞳が彼を映す。
「善ちゃん! この子よ! この子が橘を……あの人を刺したの! 殺したのよ!!」
 瞳子が叫ぶと、朱煌はぼんやりと血にまみれた掌に目を落とし、そして高城を見上げた。
 なんだ、これは。
 これは本当に、現実なのか。
 人を、殺した。
 朱煌が、実の父親を、殺した。
「――――なんてことを、したんだ……」
 高城を見上げる瞳が、ピクリと震えた。
 ああ、違う。
 そうじゃない。
 自分は何を言っているのか。
 こんなことを言うつもりじゃないのに。
「人を殺すなんて……、父親を、殺すなんて……、こんな、取り返しのつかないことを!!」
 朱煌から、表情が、消えた。
 まるで氷の仮面をかぶったように、無表情に高城を見ている。
「……母さんを泣かすヤツは許さない。だから、殺した」
「朱煌……!」
「あたしが殺した!!」
 声の限りに叫んだ朱煌は、駆け寄ってきた消防士を振り切って、再び炎上するアパートに走り出す。
「――――朱煌――――ッ!!!」
 炎の中に消えた朱煌。
 それを待ちかねていたように、木造アパートが音を立てて崩れ落ち、まさしく、紅蓮の化け物のように朱煌を飲み込んだのだ。
「あ……あぁ……朱煌――――――!!!」
 



 アパートの住人には死傷者はなかった。
 しかし、ひとつの黒焦げの遺体が発見されたのは、火事が鎮火されて一時間後の現場検証でのこと。
 成人男性であるその遺体は、解剖の結果、橘に違いなかった。
 彼は瞳子が証言する通り、炎に巻かれる前に絶命していたことが判明する。
 遺体は橘のものだけで、朱煌とおぼしき子供の焼死体は、とうとう出てこなかったのである………。
    



 朱煌の父・橘は他殺扱いとして、新宿署にて捜査が開始された。
 だが、高城はこの殺人事件の捜査から外される。主任・新藤の判断であった。
 そして、憔悴気味の高城に追い討ちをかけるような捜査状況。
 瞳子に殺人容疑がかかっているというのだ。
 ――――そんな馬鹿な……。
 瞳子が……永遠の女性が、我が子に罪を着せるなど、考えたくない。
 そんな高城の苦悩とは裏腹に、捜査陣は瞳子犯人説に傾倒していく。
 凶器と思しき包丁は焼け跡からすっかり形を変えて見つかった。
 橘の血液は確認されたが、柄の部分は焼失してしまい、指紋を判別することもできない。
 ニュースは連日、母か子か、どちらが真犯人なのか、興味津々で推理していた。
 世論は娘が殺したと主張し続ける瞳子への非難に満ち満ちていた。
 唯一……真相を知るはずの朱煌の消息は、ようとして知れない。
 紅蓮の炎の中で忽然と姿を消した。
 だが血まみれの幼子など、すぐに発見されると誰もが思っていたのに……。
 
 


 たった六つの幼子に成人男性が刺殺できるのか。
 そして瞳子が語る、父を殺害するに至った朱煌の『動機』があやふやであること。
 物的証拠のないまま、殺人容疑で瞳子逮捕。
 検察庁に身柄を送検されてなお頑なに容疑を否認し、朱煌の犯行を訴え続けた瞳子だったが、一審で無期懲役の判決が下り、被告瞳子側が控訴。
 しかし二審では検察側の求刑が通る形となり、死刑判決。
 さらに上告で、現在、最高裁までもつれこんでいる。
 彼女が拘束される東京拘置所に、親族として面会を続けた高城。
 月に一度は訪れる高城に、瞳子はありとあらゆる反応を見せた。
 無実の自分を何故救ってくれないと罵る時も。
 心細げに泣崩れる時も。
 高城の面会を喜び、心から感謝する時も。
 塀の外の話を聞きたがり、少女のように目を輝かせる時も……。
 ――――そして、どんな時にも最後は、朱煌への憎悪で締め括られるのである。
 そんな瞳子を見るうちに、いつの頃からだろう。
 あれほど愛しいと思った朱煌を思い出す度、焼け付くような憎しみにかられるようになったのは……。
 朱煌を思うと、瞳子の声が頭に響く。
「あの子は悪魔よ。実の父親を殺して、実の母親に罪を擦りつけて陥れた。あいつは血塗られた魔性の子よ………!!」




 そして……今日が朱煌と交わした、約束の日。
 辛くもあり、懐かしくもあるあの公園に、高城はやってきたのだ。
 あの事件から高城はいくつかの所轄を転々とし、昇任試験を経て部長刑事となった。もはや立派な叩き上げ刑事である。
 実家からやいのやいのと結婚をせっつかれながらも独身貴族を通しているが、当時のような荒れた女性関係は既になく、せいぜい別れた周防成子と友人として、その夫を交えて食事を するくらいのものだ。
 そして十年の時が流れ、高城は再び新宿署捜査課へと配属になっていた。
 十年目の約束の日に、あの時と同じ新宿署の刑事としてこの公園を訪れることになろうとは、なんとも皮肉な思いだった。
 ため息をついて短くなったタバコを灰皿にねじつけた、その時、背後に感じた人の気配に、心臓が跳ね上がった。 
 振り向こうにも振り向けないほど、全身が緊張に強張る。
「その様子では、待ち人今だ現れず……のようですね」
 その声に一気に緊張がほぐれ、いささかげんなりして振り返ると、新藤がニヤリとして缶コーヒーを差し出した。
「何の用だよ」
 ひったくるようにコーヒーを受け取り、高城はぶっきらぼうに吐き捨てた。
「いえいえ。待ち惚けてひとり過ごすのも寂しかろうと思いましてね。差し入れに参りました」
 朱煌がこないことを前提とした発言に、カチンとくる。
「なんで来ないと言える」
「なんで来ると思えるんです」
 コーヒーを口に運んだ新藤は、かつての殺人現場を眺めやり肩をすくめた。
「十年も前に消息を断った、六歳の子供。生きているほうが奇跡的だ。例え生きていたとして、心の拠り所として慕っていたあなたに言い分も聞いてもらえず人殺しと決め付けられて、それでも来ると、どうして思えるんです」
 相も変わらず手厳しい意見を吐く親友に、高城は一言もなかった。
 彼もまた昇進して各署の署長や本庁の管理官などをこなし、今また新宿署の捜査課課長におさまっているのだ。
 『約束の日』の話などするのではなかった……と猛烈に後悔していると、新藤は高城の隣に腰を下ろしてしまった。
 居座る気らしい。
 高城はますますうんざりした。
「俺が待つと言ったんだ。だから来た。文句あるか」
「約束を守るのは良いことです。しかし……」
「しかし、なんだ?!」
「あなたは朱煌さんを憎んでいたんでしたっけ」
 何故この男は、こうもあっさり核心を突くのか。
 憎んでいると言いながら、十年も前の約束を信じて待つ自分の心の内を、計りかねていたのである。
「………ああ。憎んでいるとも」
「憎んでいる相手のプロポーズの返事を、こうして待っているわけですか」
「そうさ。これは……復讐だ」
「復讐、ねえ」
「あいつは瞳子の人生を奪った。だから俺も、あいつの人生を奪ってやる」
「……」
「これから先、あいつが本当に結ばれるべき男が現れても、俺はあいつを手放さない。解放など、してやらない」
「……いい大義名分を思いつきましたね。三十七歳のあなたが十六歳の娘と結婚するのに、もってこいの口実だ」
「口実だと?!」
「だってそうでしょ。あなた、十年後は三十七のオヤジなんだってこと、すっかり忘れて求婚したんじゃないですか?」
――――――…どうしてこの男は、こう俺の腹を簡単に見透かすんだ……。
 実際その通りで、あの時は朱煌を手放したくない一心で無我夢中だった。
 誕生日プレゼントが指輪だったのを幸いに…というか、勢いでプロポーズしてしまったのだ。
 いや、あの時は本気で大人になっても朱煌を守ってやりたい、結婚して自分の手で幸せにしてやりたいと、意気込んでいた。
 しかし、いざ自分がもうすぐ四十代に手が届こうという年齢になって、冷静に周囲の十六歳を見渡せば、明らかに不釣合い。
 自分だってまだ若い三十七だが、相手はもひとつ若い青春真っ盛りの年頃なのだ。
「ほらね。悩んでる」
「何が『ほらね』だ!  知った風な口ばかりききやがって」
「わかりますよ。この前、捜査課の連中と呑みに行ったとき、同期の刑事の娘の話に興味津々だったじゃないですか。あそこの娘さん、朱煌さんと同い年ですもんねえ」
「てめぇ……!」
 苛立って声を荒げてみても、新藤は涼しい顔だ。
 腹を据えかねて立ち上がった時、高城の視界に清楚な女性の姿が映った。
 公園の前を通りがかる女性に、高城の心臓が早鐘を打つ。
「……朱煌」
 その呟きを聞きとめた新藤も驚いて視線を追うと、やれやれと息をつく。
「しっかりしてください。朱煌さんは十六でしょう。あの女性はどう見ても二十後半といったところ……」
「朱煌!!」
 高城の叫びに彼女はビクリとして、振り返ることなく駆け出したのだ。
 関係ない女性の反応ではないのを見て、新藤も唖然とする。
「待て、待つんだ、朱煌!」
 後を追う高城が見る見る差を詰め、シックなスーツ姿の女性の腕を捕らえた。
 引き寄せるように向き直らせた女性は……紛れもなく、朱煌。
「………あ………」
 小さく呻いた朱煌は、フッと足元から崩れ、そのまま意識を失ったのだった。





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