ラ・ヴィアン・ローズ

第6話【過去】

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    ―1980年―

 ―――――なんで。なんで俺じゃ駄目なんだ……!
「と…う…こ…」
 ―――――だって俺の子かもしれないだろ。
「とうこ……」
 ―――――なあ、頼むよ。頼むから……俺の子だって言ってくれ……!!!
「瞳子……! うわあッ」
 やおら顔に引っ掛けられた水の冷たさに驚いて、高城は飛び起きた。
 起き抜けで状況がつかめず、きょろきょろと辺りを見渡すと……朱煌が空のグラスを手にして、じっとりと高城を眺めていた。
 ああ…そういえば、仕事帰りに剣術道場の離れに寄って、疲れていたのでついウトウトとしていたのだ。
 そして……ひどく苦く懐かしい夢を見た。
「お前ね…、なんてことするんだよ」
 差し出されたタオルで顔を拭いながら、メッと顔をしかめて見せる。
「人の母親の名前連呼して、うなされてるからだよ」
 苦笑。そして、ふとまじまじと朱煌を見つめる。
 瞳子にも、父親の橘にも似たところのない面差し。
 性格もしかり。
 まあ、性格の方は境遇によるところが大きい感は否めないが。
 だから時折、思い出してしまうのだ。
 瞳子があの時宿した赤ん坊は……。
 夜の鏡となった窓ガラスに映る、自分の顔。
「かと言って……俺にも似てないんだよなぁ……」




 寮に戻ると、既に新藤が我が物顔でビールを飲んでいた。
 あの缶ビールは、高城の買い置き……。
「おかえりなさい。朱煌さんの所ですか」
「まあな。お前さぁ、金持ちの坊ちゃんだろ。ヒラ刑事が安月給で買い置きしてるビールを我が物顔で飲むなよ」
「この前、昼飯おごってあげたでしょ」
 確かにそうだが……あんな高級な店では食った気がしない。
 高城も飲み物用の小さな冷蔵庫から缶ビールを取り出すと、テーブルを挟んで差し向かいに胡座をかく。
プルトップを引き、まずは一口。
 まだまだ残暑が厳しいせいか、この喉をビールが通る瞬間が最高だ。
「……なあ」
「なんです」
「俺……、結婚しよっかな」
 新藤もビールを一口。
「……いいんじゃないですか」
 そう呟くように言った新藤が、どこか寂しげに見えるのは、気のせいだろうか。
「けどまあ、気の長い話になりそうですね」
「抜かせ。俺が本気になれば、すぐ入籍さ。まあ式は後回しだろうが」
「何言ってんです。あなたがその気でも、法律が許しませんよ」
 きょとんとした高城が、ゴクゴクと缶を煽った。
「なんで俺の結婚に、法律の許しがいるんだよ」
「刑事のクセに何言ってるんです」
 二人は互いに顔を見合わせた。
 なにやら、話が噛み合っていない……。
 眉をひそめた新藤が、空になった缶を握り潰した。
「あなた、誰と結婚する気なんです」
「誰とって…、瞳子に決まってるだろう」
「はあ?!」
 新藤らしからぬリアクションに、目を瞬く。
 新藤こそ、誰の話だと思っていたのか。
「どこをどうすれば、そういう展開になるんです」
「だってそれが一番だろ。瞳子は弱い。誰かが支えてやらなきゃ生きていけないんだ。それは朱煌にも言えることで…、俺が瞳子と結婚して朱煌の父親になってやれれば、すべて丸く収まるじゃないか」
「あ…、あんたねぇ……」
 ゆるゆると髪を掻き上げた彼が、次第に苛立っていくのが、手に取るようにわかる。
 思わず喉をゴクリと鳴らした高城は、ついじりじりと後退った。
「ま、待て。一体何を怒ってるんだ」
 大仰にため息をついた新藤は、ふと棚の上の小さな包みに目を止めた。
 明らかに女性向けにシックなラッピングが施されたそれに、極めて冷たい視線を送る。
「あれは? 瞳子さんへのプロポーズの品ですか」
「いや、アレは……」
 言いかけて、口篭もる。
 あれは以前、別れの記念にと頼まれた、現恋人の成子への誕生日プレゼントである。
 今月がそのXデーなので、昨日仕事の途中で宝飾店に立ち寄って買ったものだ。
「アレはその・・・」
「あー、別の女性へ。は、大方、成子さんというところでしょうね」
「・・・・・・」
「図星ですか。あきれますね。瞳子さんへプロポーズするという男が、他の女へのプレゼントを。不誠実にも程がある。成子女史とは別れると、あなた、明言したでしょう」
「別れるよ! ただあいつが記念に欲しいって言うから……」
「別れる気なら、そんな中途半端な優しさを見せるもんじゃない。成子女史が可哀想でしょう。まったく、女に不自由しないと返って女心に疎くなるもんですね」
 スックと立ち上がった新藤が黙ったままスタスタと部屋を後にする姿を見送った高城は、混乱の極みである。
 本当に一体何が気に入らないというのか。
 親友とはいえ、時々彼の考えていることが理解できない。
 高城としては、きっと祝福して応援してくれるだろう……という思いで打ち明けたのに。
「何なんだよ、まったく。えいクソ、ビールがまずくなったぞ」
 ヤケっぱちで一息にビールを飲み干した高城は、新藤が出ていった部屋のドアを眺めた。




 狭い1Kのアパート。
 それでもひとりきりだと、広く感じるものだ。
 仕事から帰った瞬間に出迎えるあのおちびがいないのだと思うとき、その寂寥は一層強まった。
 瞳子はキッチンの流しにたまった洗物を見てため息をつくと、その中からグラスを引き抜き、サッと布巾で拭っただけのそれに、ブランデーを注いだ。
 以前は少しでも母親の負担になるまいと奮闘する朱煌が、料理も洗物も洗濯をたたむのも、やっていてくれていた。
 ちょっと教えたら手際よく料理を作れるようになったのは、朱煌が三つになったばかりの頃だったか……。
 とにかく、あの子の飲み込みの良さは尋常ではなかった。
 それが返って瞳子の劣等感を煽り、苛立たせるという悪循環を理解するには、朱煌はやはりまだ幼すぎた。
 ブランデーを舐めながら、押入れから薄っぺらなアルバムを引っ張り出す。
 積み上げられた衣類やらがおまけで床に散らばったが、それを拾い上げる気にもならず、そのまま卓袱台でアルバムを開いた。
「世界五指の橘財閥御曹司…か」
 橘が怖々と赤ん坊の朱煌を抱いて、笑顔を強張らせた写真。
 瞳子がお気に入りの一枚だ。
 朱煌の誕生日ごと、『家族』で撮った写真。
「朱煌……」
 シカゴでの産院は、橘が手配してくれた。
 丸三日続いた微弱陣痛の苦しみ。
 痛くて、怖くて、心細くて……よもや橘がずっと付き添っていてくれるとは思わなかったから、嬉しくもあった。
 天使のような白人の赤ちゃんが並ぶ新生児室の中に混ぜられた黄色人種の朱煌は、まるで小猿そのもので、橘とふたりで笑ってしまったものだ。
 その日の内に、橘が『朱煌』という名を付けた。
 しかし、平凡な幸福もその日まで。
 溜まった仕事を片付けに病院を後にした橘の来訪は、なくなった。
 瞳子と朱煌、ふたりきりの退院。
 二三〇〇グラムと小さく生まれたが、週数も満ちた出産で肺も出来あがっていたから、保育器に入ることはなかった。
 けれどやはり小さいのでオッパイを飲む力が弱く、極端に授乳間隔が短い。
 だから、いつも泣いていた印象が強かった。
 昼夜を問わない授乳に、瞳子はイライラした。
 授乳以外で抱っこしたいと思えない。
 それでも……抱き上げると泣き止んで、表情が出てくるとニッコリ微笑んだりもするから、そんな時には愛しく 思い、心も和んだものだ。
 橘から人づてに連絡が入り養育費をくれると言ってきたが、意地を張って拒否してしまったので、ベビーシッターを雇って仕事に出た。
 疲れて帰ると、朱煌はいつも泣いていた。
 抱っこすれば泣き止むが、夜泣きが激しく眠れない日々。
 その内にベビーシッターが、懐かない朱煌が可愛くないと辞めてしまった。
 すぐ次の人が見つかったが、新しいベビーシッターから朱煌の体にいくつか痣がある…と言われて、それで初めて最初のベビーシッターの虐待に気付いたのだった。
 だから、いつも泣いていたのだ……。
 時すでに遅く、朱煌はどのベビーシッターにも懐かない、サイレントベビーになっていた。しかし、逆に手がかからない、とても扱いやすい子でもあった。。
 橘財団の総帥たる橘の母親が、瞳子と別れさせてすぐに彼に結婚させた本妻が、娘を生んだと聞いて、がむしゃらに朱煌を教育し始めたのもこの頃だった。
 負けたくなかったのだ。
 瞳子と別れろと橘に命じた彼の母に、朱煌の優秀さを見せつけて、後悔させてやりたかった。
 幸い朱煌は飲みこみよく、なにより必死に瞳子の教えについてきた。
 今思えば、瞳子に誉められたい一心だったのだろう。
 幼子に過剰な教育を施す瞳子に周囲の目は冷たく、それに苛立ち朱煌に当り散らしたりもした。朱煌はいつも黙ってそのヒステリーを受け止め、落ち着いた頃を見計らうように傍に立つのだ。
 頭を撫でて欲しそうにしているのがわかった。
 しかし、瞳子は無視をする。
 朱煌が憎かった。
 すべての不幸の元凶が、あの子にあるような気がしてならなかった。
 生活苦を理由に乳児院に朱煌を任せたこともある。
 いや、捨てたのだ。
 院長に手を引かれて院に入る朱煌が、ヒスを受け止める時と同じ表情で瞳子を振り返った顔は、今でも鮮明に覚えている。
 半年ほどして乳児院から朱煌の養子縁組の話があると連絡を受けた。
いてもたってもいられなくなり、迎えに走った。
 瞳子を見た途端、ポロポロと涙をこぼした朱煌を見て、思わず抱き合って泣いた。
 朱煌の泣き声を聞いたのは、あの子がほんの赤ん坊の頃以来だった。
 それからしばらくは、良い親子関係を築いていたと思う。
 それもそう長くは続かなかったが……。
 定期的に訪れる瞳子のヒス。
 手を上げたことは一度もないが、その分性質の悪い言葉の暴力で、朱煌を痛めつけた。
 心の安らぎを求めて男性と付き合い始めても、みんな朱煌の存在を理由に去っていく。
 決して朱煌が意識的に邪魔しているのではないが、あまりに利発な幼子を持て余しての結果だった。
 朱煌をそう育てたのは瞳子だ。
 それはわかっていても、やはり怒りの矛先は朱煌へと向けられた。
 ―――――酒のせいか、今夜はヤケに鮮明に、色々思い出す……。
 どうして朱煌は、こんな母親失格の自分に、反抗ひとつ見せずについてきてくれるのか。
 朱煌を宿してすべてが狂い始めた。
 そういう思いは拭い去れず、憎しみが瞳子の心を支配する。
 それなのに、嫌いにはなれないのだ。
 相反する愛情もまた、瞳子を戸惑わせた。
「朱煌……朱煌…朱煌…」
 呪文のように呟いて、ブランデーを一息に煽った時、チャイムの音。
 フラフラと立ち上がり玄関を開けると、高城が立っていた。
「……二度とこないでって、言ったでしょう」
「そうか? 忘れたよ」
 飄々とした高城に、つい苦笑がもれる。
「朱煌…どうしてる?」
「自分で確かめな。これ、預け先の住所と電話番号」
 背広のポケットから、皺くちゃのメモを取り出した高城。
 それを受け取って、瞳子はクスリと笑った。
 かなり長いことポケットに収まっていた様子のメモに、いつも通りを装う高城の不安が見て取れたのだ。
「ん…ありがとう。迎えに行くわ。もうすぐあの子の誕生日だし」
「ああ、そうなのか?」
 その日付を聞くので教えてやると、高城は嬉しそうに笑った。
 そして、ふと真顔になった彼は、開きかけた口を、再び一文字に結んだ。
 彼の言いたいことは、きっと昔からひとつだ。
 そうと知る瞳子は、下駄箱の上の小物入れを探り、鍵をつまみ出して高城に握らせた。
「あげるわ」
 それがここの合鍵だと気付かないほど、高城も鈍くはない。
 子供の頃のような、はにかんだ笑顔。
「じゃあ、今日は帰るよ」
「ええ、おやすみなさい」
 街灯に照らし出された高城の姿が消えるまで見送っていた瞳子は、渡されたメモを握り締めた。
 明日一番に、朱煌を迎えに行こう。
 きっと朱煌はまた泣くだろう。
 瞳子も、泣く。
 乳児院に迎えに行った時と同じく、人目もはばからず大声で泣いて、抱き合うのだろうと思う……。

                         





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