【オルガ完結章】遠まわりな愛

第三十九話 執事の進退

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 一頭立ての二輪馬車を操るのは、貴族の紳士の嗜みである。
 これに貴婦人を乗せて湖畔の周囲を巡ったり領地を案内したりと、所謂デートの際の手段。
 本当のデートではなくとも、貴婦人を楽しませるおもてなしの一貫として行うことも多いので、社交界デビュー前にはこの馬車の操作をマスターする。
 当然、フォスターもお手の物である。
 で、あるからして、やはり、ヴォルフも。
 集まっていた平民たちに囲まれて笑う父を正門の中から目を細めて眺めていたフォスターは、正面の道路を土埃が迫って来ることに唖然と目を瞬いた。
 車輪が軋む音と蹄の音で、その土埃の速度が尋常でないことは明らか。
「モートン!」
「御意」
 モートンが素早く飛ばした指示で、守衛が正門を開いた。
 いち早く門の前に躍り出たモートンがスフォールドと目配せすると、正門前に寄っていた人ごみの中央に割り込み、両手を広げて人々を門の左右に引かせる。
「方々! しばしそのまま!」
 二人の執事が人並みを割るようにして作った道目掛けて、馬車が疾走してくるのを認めたコリンズがカメラを構えて乗り出した体を、スフォールドが襟首を掴んで引っ張り寄せた。
「若造! 危ねぇ真似すると、尻っぺた引っ叩くぞ!」
 その怒号は前公爵様の執事と言うより、子供の頃に聞いた父親の一喝。
 コリンズは思わず首をすくめて、目の前を走り抜けていった馬車の勢いに身震いした。
 激走していた馬車は正門を目前にかなり速度を落として停車に備えてはいたが、少しでも体を引っ掛けられたら、大怪我で済まなかったかもしれない。
「~~~あ、ありがとう・・・」
「特ダネは、命あっての物種だろう。もう、我が主に隠すことなど何もない。無論、御子息のフォスター伯にもだ。もう好きなだけ取材させてやるから、無茶するな」
 掴んでいた襟を離してコリンズの上着を整え直したスフォールドが、クラウンを振り返った。
「ご友人方と記者たちに、お屋敷を開放致します。よろしいですね、大旦那様」
「えー、やめてよ、ご友人方だなんて」
 眉をひそめたクラウンに、コリンズが鼻白む。
 あんなに和気あいあいとしておいて、結局はお貴族様のお友達ごっこであったのかと、少しガッカリした気分になったのだ。
「スコールド、お前にだって友達でしょ」
 いたずらっぽく笑ったクラウン。
 スフォールドという男の、ポーカーフェイスと不機嫌な顔しかお目にかかったことがなかったコリンズは、平民たちに向けて表情を作りあぐねている彼が、妙に人間臭く感じた。
 そんな彼を眺めてニヤついている労務者たち。
 そこに、歴史のようなものを感じた。
 ふんだんに自分の想像を盛り込んだ記事がひどく薄っぺらく思える、積み重ねられた時間が生んだ何か。



「無茶するんじゃねぇよ、まったく。こっちの心臓がどうにかなりそうだった」
 ブツブツとぼやきながらヴォルフの胸に聴診器を当てていた老医師は、しばらくして付き添っていた傍らのフォスターに頷いてみせた。
 その途端、椅子から飛び退いて駆け出そうとしたヴォルフは、よろめいて床に突っ伏す。
「~~~私はこの通り重症だ!」
「あぁん? 分かってんだろ、カルテも読めるお利口なお馬の侯爵様。三週間も寝たきりでいりゃ、筋力も衰えてまともに歩けない。だからのリハビリだったんだろうが」
 いくら歩行をしなくて良い馬車とは言え、あれだけのスピードで馬を操って全身の筋肉を急激にフル稼働させたのだ。
 体が思うように動かなくて当然のこと。
「バイタルに問題なし。むしろ、入院時より安定してる。ここは余程、居心地がいいと見えるな」
「良くない! 処置部が悪化したらどうする気だ!」
「少々泣かされるくらい大丈夫だと見立てたんだよ」
「ヤブ医者!」
「へぃへぃ、ヤブ医者はお馬の侯爵様よりご依頼の診察に向かいますんで。ああ、先にお薬を処方しておきましょうねぇ」
 ガーゼと塗布剤を往診バックから抜き取った老医師がフォスターにそれを手渡すと、床に這いつくばっていたヴォルフが更に顔色を失う。
「じゃ、お馬の侯爵様。お尻、お大事に」
「~~~」
 戸口に控えていたスフォールドの案内で、部屋を出て行った老医師の背中を恨めしげに睨んでいたヴォルフは、フォスターが手渡された湿布の薬剤をモートンに託した気配に、ビクンと身をすくめた。
「・・・ヴォルフ。まずは、褒めてあげよう。あの暴走馬車にオブを同乗させず、ファビオの学校に行って一緒に帰って来るように指示を与えたことは、大変結構」
 そっと抱き起こされた体を抵抗させてみたが、手足が鉛のように重くて言うことを聞かない。
「一頭立て馬車のレースさながらだったねぇ。競馬場なら、間違いなく一位だった。さぞかし疲れただろう? ベッドまで支えるから、歩けるかい?」
 フォスターの声が大層柔らかいが、肩を支えられて真横に位置した彼の顔を確認した瞬間、心の蔵が震え上がった。
 こんな負荷を掛けられても大丈夫などと、あのヤブ医者には想像力が足りないのだ。
「競馬場はレース様に路面も整備されているし、何より、人の横断もないしねぇ。生活路であのスピードで疾走するのは、さぞや難儀しただろうね」
「あ、あの、フォスター・・・」
「はい、到着。ちょっと座りなさい」
 ベッドの端に下ろされたヴォルフは仰向けにひっくり返ってやろうと思ったのに、うなじに添えられたフォスターの手がそれを阻む。
 恐る恐るフォスターを見上げると、それはそれは静かな目が自分を見下ろしていた。
「さて、何年前だったかねぇ? あの老医師の病院で、街中で馬を疾走させるとは何事かと、叱ったはずだが。覚えている?」
「~~~」
 覚えているから、叩かれてもいないお尻がどうしようもなくヒリヒリとして、落ち着かないのではないか。
「気の毒に。お前に席を奪われた御者も老医師も、すっかり顔色を失って座席の縁にしがみついていたではないか。あの馬車がどれほど恐怖を伴う乗り物と化していたのか、容易に想像がつくねぇ?」
 眼前でニッコリと浮かんだ笑みが怖い。
「~~~もう、そういうのはいらないと、言った」
「そういうの、とは?」
「・・・だから、その・・・お仕置き、とか・・・」
「ほう」
 隣にフォスターが腰を下ろして軋んだベッドの揺れに、息を飲み込んだ喉が痛い。
「自分のした行為が、お仕置きに値するというのは認識できているのだねぇ」
 伸びてきた手が頭を撫でたかと思うと、やおら篭った力で引き寄せられて、押しやられたのは彼の向こう側。
 必然的に膝の上に腹這いとなった姿勢に、ヴォルフはいよいよ顔色を失った。
 バチン!・・・と振り下ろされた久々の平手に、反射的に背中が弓反りに跳ね上がる。
「~~~痛いぃ・・・。動かせない体が勝手に動くとか、労りの欠片もないのか、お前は・・・」
「・・・どれ」
 寝巻きのズボンを下着ごと捲られて、剥き出しにされたお尻に顔が紅潮した。
「おやまあ、手形がクッキリだ。いかんな。モートンや、どう思う?」
 壁際に控えていたモートンがやってきて、ジンジンとするお尻を覗き込んだかと思うと頷いた。
「はい、仰る通り、お心の制御がお手に至っておられぬかと」
「どうしたものかねぇ?」
「左様にございますね。ここはお説教に止め置かれた方が・・・」
「ふむ。お前がそう言うのであれば、そうしよう」
 無罪放免とはいかずとも、たった一発のお仕置きで済んだヴォルフは目を輝かせて二人を見上げた。
 ズボンを戻された体が持ち上げられてベッドに寝かされる。
 見上げた天涯のレリーフ。
 ふわふわの掛布。
「・・・おかえり、家出息子」
「~~~ただいま・・・」
 久しく味わう、フォスターが髪を梳いてくれる指。
 心地良い、安堵。
「まずは、体を本調子に戻さないとね。リハビリはどれくらい掛かる予定だったの?」
「一ヶ月強くらいかな」
「だ、そうだよ、モートン」
 深々とした最敬礼から顔を上げたモートンが、内ポケットから抜いた手帳にそれを書き留めた。
「では、お仕置きのご予定は来月中頃ということで」
「うん、そうだね」
 淡々とした予定確認のやり取りだが、今、何の「ご予定」と言った?
「それくらいあれば、私も心に余裕を取り戻せよう」
「それはよろしゅうございました」
 何がよろしいのだ?
「ああ、モートン。私も大人になったと思うし、私の悋気などより、お前の気持ちを優先してやりたいと思っているよ」
「恐れ入ります」
 何に恐れ入った?
「ただねぇ・・・」
「はい、旦那様」
「あわや人様を事故に巻き込みかねない馬車の暴走を、今の手形一つで済ます気はないし、それを含めてのお仕置きとなると、数日はお尻が腫れると思うのだよねぇ」
「で、ございましょうなぁ」
 この屋敷の当主は何を言っていて、その執事は何を納得しているのだ?
「そこへ、お前のお仕置きまでというのは、些か可哀想だろう?」
「左様でございますね。私めは、その後日で一向に構いませぬよ」
 思い違いでなければ、体が本調子となったところでフォスターにうんとお尻にお仕置きを据えられた数日後には、モートンからのお仕置きが待ち受けているようにしか聞こえないのだが。
「では、大旦那様とスフォールドからのお仕置きは、更に後日となりますねぇ。私めのお仕置きも、一日二日の腫れでは治まりませんでしょうし」
「そう。なら、父上とスコールドには、お前から予定を伝えておいておくれ」
「かしこまりました」
 だから。
「何の予定だ!」
 フォスターとモートンの二人にジロリと見下ろされて、ヴォルフはそろそろと掛布で顔を覆った。
「決まっているだろう。散々心配を掛けた家出息子への、お仕置きスケジュールだ」
 ようやくヒリヒリが失せかけていた手形の痛みが鮮明に再発し、ヴォルフはそっとお尻をさすった。
 帰ってくるんじゃなかった・・・。



 スフォールドが止めていくシャツのボタンを眺めて、クラウンは静かに唇を噛んだ。
 やっと諦めがついたところだったのに、この期待は返って苦痛だ。
 あのヴォルフが懸命に連れてきてくれた医師であるから黙って診察を受け入れたけれど、また打ちのめされるような無情な言葉を、正直言うと聞きたくはない。
「残念ですが・・・」
「見込みは・・・」
「完治は絶望的かと・・・」
 聞きたくない。
 ついそっと耳を塞いだ両手に、スフォールドの手が充てがわれた。
「・・・大旦那様」
「・・・クラウンて、呼んでよ。診察の時、ずっと閣下と呼ばれていて、平然と結果に笑って見せるの、結構、辛かったんだよね」
「・・・クラウン」
「あ。でも、もう付いてくるとか、言っちゃダメだからね。お前には、アーシャとヴォルフのこと、頼みたいのだから」
「・・・わかってるよ。泣いてくれて、良い子だ、クラウン」
「・・・えへ。褒められちゃった」
 ボロボロと溢れる涙を手の平で拭われて、クラウンがニッコリと微笑んだ。
「この手に、いっぱいお尻ぶたれたねぇ」
「そりゃ、お前が良い子だったから。守ってやりたい、大切にしてやりたい、良い子だったから」
「ふふ~。お陰さまで僕は、お仕置きされない更に良い子に育ちました」
「馬鹿。お仕置きは決めて無くしただけだろうが。散々、スフォールドをスコールドにさせておいて、よく言う」
「だって、兄貴みたいなお前といると、安心できるのだもの」
「爺になってもわがままな弟だな」
 そっと抱き寄せられたクラウンは、先程から典医と話し込んでいる老医師に視線を泳がせた。
「この時間、嫌いだな。結果が分かっていても、期待しちゃって」
「・・・それを幾度も、一人で?」
「・・・だって、お前の泣き顔なんて、何度も見たくなかったのだもの」
「~~~馬鹿。俺は、そういう時にこそ、傍にいたかったんだよ」
「・・・ん。ごめん」
 クラウンが首に絡まるスフォールドの腕に頬を預けた時だった。
 老医師と典医が振り返り、老医師の方が二人の前に進み出た。
 その場に留まって俯き加減の典医の表情が、幾度目かの同じ宣告を予感させて、クラウンが苦笑を浮かべる。
「・・・スフォールド。ペンと、便箋をこれへ」
「クラウン」
「今すぐ。・・・お前もわかるだろう? この年になるとね、春までなど、瞬きする間に訪れる。その前に、お前の再就職先への紹介状を書いておかなくちゃ」
「~~~クラウン!」
「フォスター伯爵家には、既にモートンというお前が立派に育てた家令がいる。お前ほどの男がただの執事に甘んじるなど僕は嫌だ」
「それは俺が決めることだ」
「いいや、お前の進退は主人の僕が決めることだよ。それが執事でしょう」
 自分を包むスフォールドの小刻みに震える腕をあやすように叩いたクラウンは、ヒラリと老医師に向けて手の平を差し出した。
「先生、どうぞ。もう、覚悟はできていますから」
 泣いている執事にかき抱かれながら微笑むクラウンを見つめて、老医師が口を開いた。
「・・・根治は、致しかねます」
 幾度も一人で聞いた言葉。
 だが、今は傍にスフォールドがいる。
 彼がかつてないほどビクンと身をすくめた気配をその身に感じたけれど、それでも、一人ぼっちで受けた宣告よりは安らかであった。
「・・・ローランド公爵閣下」
「先生、僕はもうローランド公爵ではありませんよ。フォスター伯爵家の隠居です」
「私は、ローランド公爵閣下と問診を行いたいのです」
 クラウンは目を瞬いた。
 名のある名医達に幾度も診断を受けた身だが、そんなことを言われたのは初めてだった。




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