【オルガ完結章】遠まわりな愛

第三十話 黒曜石の手の平

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 自分を覗き込んでくるオルガに、ヴォルフは微笑みかけていた。
「オルガ・・・」
 フォスターへの招待状は、いつも欠席の返事しかこなかった。
 宮廷で会って高位の立場を利用して話しかけてみても、彼は逆に下位の立場を利用するように上位者への儀礼的な言葉しか返してくれず、学生時代のような気安い会話はしてくれなかった。
 それがどうして悲しいのかわからなくて、イライラして、屋敷で使用人に当たり散らしていると、オルガはやってきた。
 ヴォルフが手当たり次第に投げつけるものがいくら当たろうと、近寄ってきた。
 そうしてヴォルフの足元に跪いた彼女は、そっと両手を掲げるのだ。
 差し伸べられた手の平が、とても温かそうだった。
 だから、つい、その手に顔を埋めた。
 四つん這いで過ごすことを強要されたその手の平は、床に冷やされて冷たかったのに、想像した通りに温かく感じた。
 自分を見上げてくる、黒曜石の瞳。
 まるで、石炭。
 黒光りしながら、明々と燃える暖炉の温もり。
 ずっとこの娘に傍に居て欲しい。
 いや、傍に居たい。
 そう思った。
 それが何故だかわからない。
 わからないけれど、そう思った。
「オルガ、愛している・・・」
 覗き込んでくるオルガに、ヴォルフは今ならわかる気持ちを口にした。
「オルガ、好きだ。大好き・・・」
 こんなにも愛おしい気持ちが、どうしてあの頃はわからなかったのだろう。
 初等科でも、中等科でも、高等科でも、大学でも、いつだって、首席だった。
 父や母に自慢の優秀な息子と言って欲しくて、思って欲しくて、たくさん褒めて欲しくて、たくさん、たくさん、勉強した。
 だから、学問に関することなら大抵のことは知っていたのに。
 この気持ちだけはわからなかった。
「オルガ・・・、オルガ・・・、大好き・・・」
 フォスター家に住むことになった。
 オルガをフォスターに売って良かった。
 そう思っていた。
 けれど、そういうことではないと、少しずつ、少しずつ、わかり始めた。
 オルガをフォスターに売ったからとか、そういうことではなくて。
 彼女が、導いてくれたのだと。
 手を引いてくれたのだと。
「オルガ・・・、すまなかった・・・」
 あんな非道を課して。
 あんな辛い思いをさせて。
 本当なら、オルガをフォスターに売って終わりだっただろう。
 それなのに、オルガは舞い戻ってきた。
「オルガ・・・」
 フォスターの元への、招待状となってくれた。
 フォスターの傍に、行くことができた。
 そうして、フォスターに教わったこと。
 どの教科書にも、参考書にも、論文にも、載っていなかったこと。
 フォスターは自分よりずっと成績も悪かったのに、自分より色んなことを知っていた。
 自分がオルガにしてきたことが、どれほど愚劣極まりないことであったのか、健やかに育っていくオルガを見て、教えられた。
「・・・ふふ。健やかと、言うのかな・・・」
 思い通りに、言う通りに。
 隷属のオルガ。
 わがままで、言いたいことを言って。
 伸びやかに、それが、オルガ。
 思い通りにならない。
 言う通りにならない。
 そんなオルガが、きらきらと眩しくて。
 そうだ。
 あの手の平。
 温かそうだと感じたあの手の平には、そんなオルガが詰まっていたのだ。
 あの手の平だけは、隷属でなく、命令でなく、指示でなく。
 本物のオルガ。
 オルガの意思。
「ああ・・・。だから、あんなに温かかったのだ」
 命令では得られない、彼女の心が、そこに詰まっていたから。
「オルガ・・・」
「オ・・・だよ」
「オルガ・・・」
「オブ・・・だよ」
「オルガ・・・」
「オブシディアンだ! しっかりしろ! 俺だ! ヴォルフ!」
 小さな手が自分を揺さぶって声を高くしたことに、ヴォルフはようやく虚ろだった視界をハッキリと認識した。
 薄れゆく景色は建物の間から細く見えた、煙突の煙に煤けた空だった。
 今は、生成り色の天井。
「・・・オブ。どうして泣く・・・。怪我をしたのか・・・? 痛いのか・・・?」
 ぼんやりと紡いだ言葉に、オブシディアンが涙を覆い隠すように腕で目をこすった。
「大怪我で死にかかってたからだろうが!」
「大丈夫か・・・?」
「バカ! オメェがだよ!」
「・・・私が?」
 確かに、思うように動かない体。
 どうにか視線を這わせたヴォルフは、薬品臭が鼻腔をなぞるような独特の空気で、ここが病院であると把握に至った。
 ただ、何やら視界が狭い。
「・・・あまりよく周りが見えない」
「え!? 見えないって・・・!」
 そう言ったヴォルフの視界にもう一人の顔が覗き込んできて、オブシディアンの頭を力強く撫でているのが見えた。
「大丈夫だよ。単に瞼が腫れて視野が狭くなっているだけだ。ほれ、ヴォルフとか言ったな。見てみな」
 眼前に差し出されたのは鏡で、ヴォルフは唖然とした。
 所どころ赤黒く、または青く、黄色く、痣だらけの顔はパンパンに腫れ上がって、一瞬自分だとわからなかったのだ。
「両瞼と頬が膨れ上がってるだろ? そのせいで視界が狭いだけだ。眼球には損傷はなかった。腫れが引けば元に戻るさ、安心しろ」
 確かに、視界が狭いだけで不明瞭というわけでなく、淀みも感じない。
「・・・今、遠くと近くを確認してみた。ピントにズレはなく、欠損も感じない」
 オブシディアンの隣で覗いていた、老人というにはまだ早いが年配の男が目を丸くしているのがわかった。
「医学をかじったことがあるのかね?」
「・・・多少」
「赤毛強盗団の一味に、インテリがいたとはな。なら、外傷性の心タンポナーデはわかるか?」
「わかる。私が?」
「ああ、余程ひどい暴行を受けたんだな。心嚢穿刺(しんのうせんし)の処置の後、ここへ運んで開胸し、心膜の縫合手術を行った。当分は安静にしててくれ」
「・・・あなたは外科医か?」
 じっと目を凝らしてみると、彼が白衣を着ているのがわかった。
「いや、専門は内科医さ。労働者相手の町医者は、専門だ何だと言っていられないからな。スープキッチンの当番制無料診療所に出向く、ま、何でも屋だな」
「ああ・・・。ボランティア医師組合の加盟医師か・・・」
 白衣の老医師は、再び目を見張ってベッドに横たわるヴォルフを見つめた。
「オメェ、赤毛たちと違って妙に栄養が行き届いた体つきだよな。労働階級の平民じゃ・・・」
「そう言えば、赤毛たちは・・・?」
「ああ・・・」
 老医師はガリガリと頭を掻いた。
「瀕死のオメェを教会のスープキッチンに運び込んで、その後、警官にしょっ引かれた。あいつらは強盗容疑で手配中だったからなぁ」
「え・・・」
「コイツだけな、チビで強盗団一味に見えねぇってんで、置いて行かれた」
 ヴォルフは細い視界で俯いているオブシディアンを見た。
 一皿のスープとパンを配給されるスープキッチン。
 縄張りを貸し与えられ、言われるままに強盗を働き、警官を恐れてそこに行けなくなっていた赤毛たち。
「オブ・・・、どうして・・・」
「どうしてって! ~~~お前が、死にかかってたから・・・。病院に連れて行く金がないから、スープキッチンの仮設診療所しか、思い浮かばなくて・・・」
「・・・オブ、ありがとう。・・・ドクター、手が動かない。私の代わりに、オブをうんと抱きしめて欲しい」
 苦笑を浮かべた老医師は、オブを抱き上げてヴォルフに見えるように膝の上に座らせてやった。



「えい」
 執務机で手にした各国の医師名鑑を見据えていたフォスターは、父に頬をつつかれて顔をしかめた。
「またそうやって邪魔をなさる・・・」
「だって~、アーシャが怖い顔しているのだもの」
「怖いとは心外な。真剣な表情と言うのです、これは」
「だって眉間にシワ」
 指摘された眉間を揉みほぐすように指で撫でていると、執務室のドアがノックされてスフォールドが姿を現した。
主親子に一礼を向けて入れ替わりに出ていこうとしたモートンに、スフォールドが何やら耳打ちする。
 黙って頷いたモートンは、もう一度頭を垂れて執務室を後にした。
 この頃の執事たちの日課である。
 交代で屋敷を出て、ヴォルフの行方を捜索に出ている。
「スコールド? 何か進展があったのかい?」
「スフォールドにございます、旦那様。モートンには少々、注意喚起を」
「注意喚起?」
「はい。・・・大旦那様」
 スフォールドの声が、何やら怒っている気がするのだが。
 うん。勘違いではないなと、フォスターは頷いた。
 詰め寄られた父が小さくなっているところを見るに、やはりスフォールドは怒っているのだろう。
「あなた、引越しの際に何かヘマをやらかしていらっしゃいますね?」
 友人口調と執事口調がゴチャまぜだ。
「え~? ビーはちゃんとフォスター家に着いたし。僕もこうしてここにいるし。ヘマなんて・・・」
「ほう! ならば、どうして大衆紙の記者がフォスター家を張っているのやら」
「・・・あ~」
 頬を掻いて視線を泳がせるクラウンを、スフォールドは更に睨み据える。
「いやぁ~・・・。ガーデンタイムズって大衆紙の記者にね、引越しの日に送ってもらっちゃって。そしたら、着いたタイミングでビーを送り届けたワイラー家の車が出てきちゃってさぁ。まずいな~とは思ったのだけど、やっぱり疑われちゃったか。あはは」
「・・・で? 送られることになったのは、発作を起こしていたからにございますか?」
 イタズラが見つかった子供のような上目遣いのクラウンに、スフォールドが大仰な溜息を漏らした。
「発作があったなら、どうして私をオリガ様のところに行かせたのです」
「ち、違うよぉ。あの時は発作の前兆もなかったんだ。だから、一人でも大丈夫だと思って・・・」
 フォスターは、モートンに甘えている姿を見られたくない。
 ならば、父もそうかもしれないと思い、明後日の方角を眺めていた。
「では、今日の発作の回数を、正直におっしゃい」
「・・・二回」
 二回?
 父は一言もそんなことを言わなかった。
「父上、いつですか?」
 明後日を見ている気分ではなくなって問いかけると、クラウンは更に小さくなって俯いた。
「夕食の時と・・・、実は、さっきも」
「さっき?」
「お前のほっぺをつついた時・・・」
「~~~ど。~~~い。~~~い。~~~な・・・」
「どいいな?」
 スフォールドがフォスターに向けて頷いて、クラウンの耳を摘まみ上げた。
「イッ、痛いよ、スコールド!」
「旦那様はね、『どうして言ってくれなかった。言われたところで、何もできないけれど』と、こうおっしゃっているのです」
 その通り。
 その通りだが。
「スコールド、離して差し上げておくれ。父上の心臓が・・・その、驚いてしまう」
「少しばかり懲らしめてやらねば、この道化師は仮面を脱ごうとなさらぬのですよ」
 ああ。言葉遣いどころか、態度まで友人と執事がゴチャまぜだ。
 叱られる父親なぞ見たくない。
 見たくないのに。
「わかったってば! ごめん! ごめんなさい! 苦しい時はちゃんと言う! 言います! だから離して~~~」
 ようやく解放された耳をさすりながら父が浮かべるはにかんだ笑顔を向けられるスフォールドが、妙に羨ましい気分だ。
「無論、私めにもございますからね。お約束ですよ」
「ありゃぁ。お約束事項の追加なんて、何十年ぶりだろうね。でもさぁ、お前といる時は、不思議と発作が起きないのだよねぇ。これは本当」
「それは嬉しいご報告にございますね。それが本当なら・・・」
 スフォールドが浮かべた表情は、何とも形容しがたいものだった。
 けれど、言いたいことはわかる。
 それならば、ずっと傍にいる。
 きっと、そう言いたいに違いないとフォスターは思った。
 直後、悪戯っぽく片目をつむって見せたクラウンが、ふと胸に手を当てた。
「あ。そうでもないか。最近は、お前がいても発作が起きていたっけ。お前、期限切れなのかねぇ?」
「・・・大旦那様」
「うふん」
「・・・おいでなさい。寝物語にたっぷりと小言を聞かせて差し上げましょう」
 クラウンの襟首を掴んだスフォールドが、それはそれは恭しくフォスターに最敬礼して執務室を出て行った。
 その手に引きずられて、父もまた共に。
「父上。受診を済ませた医師の名は、これで全てでございますね?」
 扉が閉じる寸前にヒラヒラと振られた手が応の意であると認識し、フォスターは再び医師名鑑を手に取った。
「・・・私といても発作が起きるのに、スフォールドといると・・・?」
 今更ながら傷つく。
 そりゃあ、確かにスフォールドとの時間の方が、格段に長い。
 息子の自分の前でまで道化師でいようとする父の、唯一心許せる存在であるスフォールド。
「いや。いや、違う。待て。そうじゃない」
 負の方向に向かおうとした思考を、フォスターは振り払った。
「父上が無闇に私を傷つけることを言うはずがない。心臓の発作が、精神面だけで左右されるものか? そこに、何か理由があるのではないのか・・・?」
 医師名鑑を閉じて、フォスターは髪を掻き上げた。
「えい、クソ! こういうことは、ヴォルフの方が賢い!」
 フォスターは上座に置いたヴォルフの執務机を見つめた。
「お前に私が必要なように、私にはお前が必要なのだよ、ヴォルフ・・・」



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