【オルガ完結章】遠まわりな愛

第二十五話 懐中時計の場所

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 切符の手配。車。見送り。
 その全てをヴォルフは拒否した。
「フォスター卿。もう、私の世話を焼いてくれずとも結構だ」
 執務室の窓から眺めていると、トランクを一つぶら下げたヴォルフが玄関ポーチから出てくる姿が見える。
 いくら眺めていても、こちらを振り返ろうともしない。
 フォスターは両手の平で顔をこすった。
「私はヴォルフの一番の理解者だと思っていた。・・・とんだ驕りだったよ」
 モートンに差し出されたお茶を口に含むと、フォスターは執務椅子に体を投げ出すように身を委ねた。
「そりゃね、いつかは巣立って行くだろうと思っていたさ。けれど、これは巣立ちと言わぬよな。断絶だ」
 イライラと机の天板を指で弾いている手を、モートンが黙って見つめていた。
「何故? どうして? 何を考えている? どうしたいんだ!」
 馬の蹄が駆けるような音を刻んでいた指が拳に結ばれて、荒々しく机に打ち付けられた。
「・・・モートンしかおらぬところで、そうおっしゃられても」
 フォスターはお茶を一息に呷って机に置くと、顔をしかめて執事を見上げた。
 彼が一人称に「モートン」を使っていたのは、フォスターが子供の頃だ。
 暗に子供っぽい行動を諌めているのだろう。
「・・・仕方ないじゃないか。あんな言い方をされたら、何も言えなくなった」
 大学時代に、自分がヴォルフに吐き捨てたのと同じセリフ。
 深い吐息と共にフォスターは髪をかき上げた。
「若気の至りと言え、我ながら、酷い言葉を言い放ったものだな・・・」
 あの時、ヴォルフは愕然と、呆然と、見知らぬ場所に置き去りにされる子供のような顔で、立ち去るフォスターを見つめていた。
「それでもセドリック様は、招待状を送り続けてくださったではないですか」
 それだけではない。
 宮廷やクラブの会合、他家のパーティーで会えば、必ず話しかけてきた。
 それを無下にし続けた数年。
 数年は、覚悟の上で。
「・・・あの子が本音を言ってくれるまで、根気強く、やっていくしかないかぁ・・・」



 正門をくぐったヴォルフは、守衛室から塀沿いに少し歩いた先で、ようやく屋敷を見上げた。
 ここでなら、自分が後ろ髪を引かれて止まない顔でフォスター家を見ていることは気付かれまい。
 もう三年。
 いや、たった三年?
 三十年生きてきた内の、たった十分の一の時間。
 それが、こんなにも愛おしい・・・。
「ぁ・・・ぎゃ!」
 物心ついて以来、転ぶなどという事態に陥った記憶のないヴォルフは、何かに蹴躓いて思い切り地面を抱きしめた自分に、しばし呆然とした。
「~~~い、痛ぃ・・・」
 転び慣れていなくとも、咄嗟に手をついて顔面を直撃させるのは回避できたが、体のあちこちが痛い。
 体を起こしつつ後ろを振り返ったヴォルフは、ガス灯にもたれていたオブシディアンが突き出していた足に躓いたことを理解した。
「あ」
 目が合った途端、オブシディアンがズカズカと近付いてきたことに、ヴォルフは思わずダンゴムシさながらに頭を抱えて丸まった。
「いっ! 痛い! オブ、痛い!」
 爪先で脇腹を幾度も蹴られ、それを庇った手の甲も蹴られ、ヴォルフが呻く。
「うるせー、クソ侯爵。オルガが泣いてんだろうが」
 それを言われると、黙って耐えるしかなくなったヴォルフが唇を噛み締めて声を堪えているのを見て取ったか、オブシディアンがつまらなさそうに唾を吐き捨てた。
 そろそろと顔を上げたヴォルフは、睨んでいるオブシディアンを見てビクリと首をすくめる。
「・・・あれで、最後だ。もう二度と、オルガにも、この屋敷にも近付かない」
「は。どうだか」
「本当だ。・・・私に幸せになる権利などない」
「よくわかってんじゃねぇか」
 鼻を鳴らしたオブシディアンは、ヴォルフがヨロヨロと立ち上がろうとしている脇に潜り込んで体を支えてやった。
「あ、ありがとう・・・」
「助けた訳じゃねぇから」
 オブシディアンがヒラヒラと振って見せたのは、上着の内ポケットに入っていた財布。
「あばよ」
「え。あ。財布。ないと、帰れない・・・」
「知るか」
 財布を持ったまま街へと走り出したオブシディアンを追ったヴォルフだったが、ただでさえろくに駆けるという行為をしたことがない上に、自分で荷物を持ったままというのは初めてで、すぐに息が切れて足がもつれる。
 上がる息に胸を押さえて足を止めると、数メートル先でオブシディアンも立ち止まってヴォルフを眺めていた。
「・・・オブ、待って・・・」
 手を伸ばすと再び駆け出してしまうので、仕方なくまた自分も走る。
 そんなことを幾度か繰り返す内、ヴォルフは自分が貧民街まで誘い込まれていたことにようやく気付いた。
 以前も来た場所だ。
 貴族邸が連なる豪奢な街並みからほんの数ブロック離れただけで、こんな見窄らしい場所があったことに大層驚いた。
 あの時はファビオを供に歩き、彼がこれ見よがしにちらつかせるピストルのせいで近寄ってくる者はいなかったけれど、今は路地に蹲るボロ布の塊のような男たちが、一斉に距離を詰めてくる。
「あ・・・」
 先日、クラウンにこれでもかと叱られたことを思い出した。
 彼が本気で怒っていたのは、こういうことで。
 ヴォルフがゴクリと息を飲み込んだ時、オブシディアンが声を張り上げた。
「兄貴ぃー! 兄貴ぃー! 獲物! 早くしねぇと、横取りされる!」
 ザラザラと重なる足音が物陰から聞こえ始めると、ボロ布たちの歩みが止まった。
「おら、どけ! 邪魔だ!」
 続々とやってきたのは、ボロ布には違いないが、まだ衣服と呼べるものを身にまとった青年たちだった。
青年たちが振りかざすナイフを見て、ボロ布たちが元いた場所に踵を返して蹲る。
「おぉ、チビ。死んだのかと思ってたぜ」
「ふふー、兄貴、これ!」
 語りかけてきた赤毛の青年へオブシディアンが得意気に差し出したのは、ヴォルフの財布。
「お。やるじゃないか。こいつぁ上物だ」
「中身! 中身!」
「どら。・・・すげぇ! こんな札束、見たことねぇ・・・」
 ヴォルフの財布の中身に目を丸くした青年は、オブシディアンを高々と抱き上げ声を上げて笑った。
「ははは! すげぇぞ、オメェ! でかした! これで当面、ショバの上納金には苦労しねぇ!」
「えへへ。後ね、あれも」
 オブシディアンの指差す先にいたヴォルフを、青年たちが一斉に見据える。
「こりゃまた、上等な・・・」
 リーダー格らしい赤毛の青年がニンマリと口端に笑みを揺蕩わせて顎をしゃくると、青年たちがヴォルフに掴みかかった。
「すげぇ! トランクの中身も高級品ばっかだぜ! 手袋まで絹だ!」
「見ろよ! こいつの上着、ウールだぞ!」
「おい、このカフリンクス、らでんざいく(螺鈿細工)ってヤツじゃねぇ? 買取屋のオヤジが高く買ってやるって見せてくれたのと同じだ!」
 グイグイと腕や上着を引っ張られてまともに立っていられないヴォルフは、それでもどうにか抵抗していたが、上着を剥ぎ取られたのはあっという間の出来事だった。
「や、離せ! 無礼者!」
「はいはい。無礼者ですよ~。シャツも絹かよ。身包み剥いじまえ」
「~~~!」
 とうとう下着姿で地面に転がされたヴォルフは、素肌に外気を感じるなど初めてで、両腕を抱きしめるように手の平でさする。
 惨めな半裸姿の侯爵を見下ろして、オブシディアンが悦に入った笑みを浮かべる。
「・・・オブ、お前たちは、いつもこんなことをやっているのか? 働く場所はないのか?」
「あぁ!?」
 赤毛の青年に背中をしたたか蹴りつけられ、ヴォルフは激しく咽せ込んで地面に蹲ったが、すぐに顔を上げて彼らを見渡す。
「なあ、教えてくれ。お前たちが特別なのか? それとも、これがこの国の日常なのか?」
「~~~いちいちクソむかつく野郎だなぁ!」
 再び振り上がりかけた赤毛の青年の足にビクリとしたヴォルフが、その動きを制すべくしがみついた。
「頼む! 教えてくれ! お前たちのことが知りたい!」
「離せ、おい! 何なんだ、テメェはよ!」
 ヴォルフをリーダーの赤毛から引き離そうと、躍起になって殴打を加える兄貴分たちを眺めていたオブシディアンが愉快げに笑みを浮かべた。
「兄貴ぃ。そのお貴族様に、俺たちの生活を味合わせてやるのも、面白いんじゃねぇ?」
「あぁん? 何だ、こいつ、ブルジョアどころか特権階級かよ」
 自分の足にしがみつく、体のあちこちに鬱血や傷を刻まれた下着姿の哀れな貴族様を見下ろして、赤毛の青年がニヤリと唇に笑みをなぞらえた。
「なるほどな。そいつぁ、面白そうだ」
 ヴォルフの前に屈んだオブシディアンは、彼の髪を掴んで顔を引き上げる。
「来るな?」
 息も絶え絶えの様子のヴォルフが、小さくコクンと頷いた。



「この馬鹿! こんなに遅くまでどこ行ってたんだ!」
 使用人ホールに響き渡るオブシディアンの悲鳴とピシャリピシャリとお尻を張る音に、通りすがる従僕やメイドたちが苦笑していく。
 椅子に掛けたファビオの膝に腹ばいにされたオブシディアンは、繰り返し繰り返しズボンのお尻に降り注ぐ平手に手足をバタつかせて抵抗を試みていたが、それがますます平手の強さを増す悪循環を引き起こすのだった。
「痛いよ、離せ! 下ろせ! 俺がどこに行ってようと勝手・・・イテー!」
「黙っていなくなるな! 心配かけるんじゃない!」
「いーたぁーいーーー! 離せってば、ばかぁ!」
 唯一の防御壁たるズボンの布地に熱が篭もり、ヒリヒリとするお尻を庇った手を背中に縫い付けるように押さえ込まれたオブシディアンは、ファビオの手がズボンの縁に掛かったことで青ざめた。
「心配させてごめんなさいも言えない子には、きついお仕置きだ」
「やー! やだぁ!」
 必死でジタバタともがいていたオブシディアンのズボンが捲られる気配はない。
 おそるおそる見上げると、ファビオの手をモートンが掴んでいた。
「・・・どうして止めるんですか」
「それがお仕置きなのであれば、止めないけれどね」
 黙って唇を噛み締めていたファビオが押さえていた腰から手を離したので、オブシディアンは急いで膝から飛び降りてモートンの太ももにしがみついた。
「モートン、モートン、ファビオがぁ・・・」
「うん。よしよし」
 抱き上げられたモートンの腕の中からファビオに歯を剥いて見せてやったが、彼は押し黙ったまま、真面目くさった表情を変えなかった。
「すいませんでした、モートン。仕事に、戻ります」
「銀器磨きを頼むよ。あれは、無心になれる」
「・・・はい。ありがとうございます」
 ぺこりと頭を下げて出て行くファビオを見て、オブシディアンはつまらない気分で肩をすくめた。
 無反応のファビオもつまらないが、モートンだって庇ってくれたのなら、このお尻の痛みを相殺するほど叱りつけてくれれば胸がすいたのに。
「オブ、ファビオも反省しているから。お前もちゃんと反省おし」
 覗き込んできたモートンの顔が厳しい色を含んでいることに気付いた時には、オブシディアンの体は椅子に掛けた彼の大きな膝の上にうつ伏せに下ろされていた。
「え? え?」
「今からちゃんとお仕置きをするから」
 そう言いながら、先ほど捲られることなく済んだズボンは下着ごとズリ下ろされてしまい、きっと赤く色づいているであろうお尻がはみ出た感触にギョッとする。
「や! 何す・・・あ!」
 肘から軽く振られただけの平手がパンッとお尻を弾いただけで、。
「やだぁ! 何でだよ! モートンのばか!」
「黙って家を抜け出した子が、叱られるのは当然だろう」
「いっ! うっ、ぅ・・・ここは俺の家じゃねーっての!」
「お前がどう思ってるかは知らぬが、私達は皆、お前のことを家族と思っている。ファビオは本当に心配して、朝から今までずっと探し回っていたのだぞ」
 パンッ、パンッ・・・と、悲鳴を上げるほどでなく顔をしかめる程度の痛みなだけに、静かなモートンの声がよく聞こえた。
「ただね。彼も少し心乱れているところがあったから、お仕置きを交代した」
「~~~心配しろなんて・・・頼んでないし」
「お前に頼まれなくても、私達はお前を心配すること、よぉく覚えておきなさい」
 ピシャリ!と。次の平手は背中が仰け反るほど痛かった。



 ファビオのベッドの傍らに配置したエキストラベッドで、眠りこけているオブシディアンが蹴飛ばしている掛布を肩まで直してやったファビオは、通路側のドアが開いた気配に続き部屋を覗いた。
「モートン、おかえりなさい。お疲れ様でした」
「まだ起きていたのかね? なら、ランタンの油の補充を頼もうかな」
「はい」
 夜回りに持って出ていたランタンをテーブルに置くと、油の補充を始めたファビオの姿を眺めつつ、モートンは壁際のデスクに腰を下ろしてやり残していた帳簿の整理に取り掛かった。
「・・・あの、モートン」
「なんだね、ファビオ」
 おずおずと差し出された教鞭を見て、モートンは傍らに立つファビオを見上げる。
「僕は黙って出て行ってしまわれたセドリック様への苛立ちを、オブへぶつけて八つ当たりで手を上げました。どうか、お仕置きをお願いします・・・」
 机からファビオに体を向けたモートンは、彼が差し出す教鞭を受け取った。
「・・・お尻を出しなさい」
 自ら申し出たこととは言え、やはりゴクリと息を飲み込んだファビオは、帳簿の開かれた机の上に腹を乗せた。
「~~~っ!」
 ヒュンッと空を切った教鞭が、ズボンの上からでも鋭い痛みをもたらす。
「~! ~! ~! ~!」
 続けて四発振られた教鞭が机に置かれ、歯を食いしばって顔を伏せていたファビオはモートンに抱き寄せられていた。
「ファビオ。いい子だ。ありがとう」
 くしゃくしゃと髪を掻き回してくるモートンの声が、震えていた。
「セドリック様を愛してくれてありがとう。そのせいで、心乱してくれてありがとう。私はお前の師であるから、その心の乱れでのお仕置きと呼べない八つ当たりめいた折檻を叱るけれど、お前の優しさに、感謝している」
 ファビオがポケットから抜き取って目を落とす懐中時計を、モートンもまた涙ぐんだ瞳を向ける。
「随分と重い懐中時計を託してしまったね・・・」
「いえ。いいえ!」
 大きく首を横に振ったファビオは、懐中時計を握る自分の手にモートンの手を引き寄せた。
「これは、ただの『物』です。本当の懐中時計は、あなたの胸にも、旦那様の胸にも、僕の胸にもある。その懐中時計の刻む音は、必ず迷子のセドリック様に・・・」
 届けたい。
 届け。
 届くと、信じたい。
 



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