【オルガ完結章】遠まわりな愛

第二十四話 侯爵様の旅立ち

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 宮廷での議会は年におよそ百五十日程である。
 逆に貴族たちが各々の領地の(最も代表的な収穫祭を基準に、漁業で発展する領地の豊漁祭も、工業で発展した領地の工業祭も初秋から晩秋前までに行われる)行事ごとで王都を留守にする時期には、余程のことがない限り議会はしばしの閉会。
 つまり三ヶ月程の期間、常会はないことになるので、残りの九ヶ月で約百五十日。
 その中で年度末が最も多く開かれ、年間で実地された公共事業の決算報告から来年度の予算審議会が、ひと月の間に幾度も開かれるので、ほぼ毎日出仕することになる。
 百五十日の内の約三十日。
 結果、あくまで基準だが、残りの八ヶ月の間に約百二十の議会開催となり、フォスター達が一ヶ月で出仕するのは、月の半分程。
 それも一週間丸々議会で出仕する週もあれば、逆に一、二週間強出仕のない日もある。
クラウンの引越しの申し出は、ちょうどそんなぽっかりと出仕日が途絶える週始めであった。
「ご自分のことをさておいて、まず周囲を優先させる。ローランド公爵位返上と領地の王太子領への委譲然り、此度の引越し然り・・・」
 繁忙期の間に幾度と襲ったであろう心臓の発作を、黙って堪えていた父の姿を想像すると、自分こそ胸が痛む。
 さらさらと。
 開け放った窓から吹き込む風がレースのカーテンを弄ぶ。
「旦那様、そろそろ窓をお閉め致しましょう。初夏の夜は冷えます」
 窓辺に佇んでいたフォスターが口を付けずに手にしたまま、すっかり冷め切ったナイトキャップのカップを、モートンがそっと手に取ってサイドテーブルに下げる。
「お体が冷え切っておりますよ。さあ、暖炉の前に」
 羽織らせたブランケットの上から肩をさすって、モートンが暖炉の前のソファにフォスターを誘った。
 フォスターがソファに腰を下ろしたのを確認し、モートンは窓を閉じて俯き加減の主を振り返った。
「ナイトキャップ、淹れ直しましょうね」
「・・・すまないね。折角淹れてくれたのに。今日はブランデーで良いよ」
「かしこまりました」
 ナイトキャップに軽く垂らす為に用意していたブランデーをスニフターに注ぐモートンを、フォスターはぼんやりと見つめていた。
「・・・なぁ、モートン」
「はい、旦那様」
「・・・私は、決して諦めぬよ」
「はい」
「世界には、今回呼ばれていない医者もおろう。父上を救える医者を、探し出してみせる」
「はい」
「次の春まで、まだ何ヶ月もあるもの」
「はい」
「諦めぬ」
 差し出されたスニフターグラスを手に取ったフォスターが、勢いよく呷ろうとしたのを、モートンがそっと遮る。
「慣れぬ飲み方をなさると、返って寝付けなくなります。ゆっくり。グラスを両手で包んで、まずは香りを味わって」
 手の温もりでグラスの丸みの中を這うように立ち上り始めた芳醇な琥珀の香りに、フォスターはそっと目をつむった。
「なぁ、モートン」
「はい、旦那様」
「私は諦めぬ。諦めぬけれど。今だけ、泣いても・・・良いか?」
 モートンが静かにフォスターの背中に回り両肩に手を添えると、堪えていた涙が止めどなく溢れ出す。
「これきりだ。必ず助かる父上のことで、悲しいとか、悔しいとか、それで泣くのはこれきりだ」
「はい」
 フォスターは涙で凝った顔でモートンを振り返った。
 そこにあるのは優しい笑みだけ。
「・・・ふふ。お前は本当に、私をよくわかっているね」
 自分の前だけでなら弱音を吐いて良いと言われていたら、それに甘えて、それにすがって、折れてしまいそうな心。
 モートンという執事は、手を引かれれば甘えたくなる主の気質を心得て、背後に回ってくれたのだ。
 どう歩いて行こうと、ついてきてくれると。
「・・・モートン、私にはやはりブランデーはきつい」
「はい。そうおっしゃると思い、五徳でミルクを温めております」
「ホットミルクがナイトキャップなど、子供かね、私は」
「私めの中では、いつまでも」
 スニフターを取り上げるようにして、サイドテーブルに歩いていくモートンの後ろ姿を眺めていると、つい、笑みが溢れた。
「ハチミツはたっぷりで」
「はい、かしこまりました。程々に」
 肩をすくめて不貞腐れてみる、安らいだ時間。
 恭しく銀盆で差し出されたホットミルクのカップに手を伸ばした時だ。
「ふぉすた! ふぉすた! ふぉすたぁ・・・!」
 やにわに寝室へ飛び込んできたオルガを抱きとめて、盛大に溜息。
「・・・あのね、オルガ。言いたいことが山ほどあるのだが」
「知ってるわよ、そんなの!」
 フォスターを見上げてくる顔は、これでもかと眉を吊り上げているのに、ボタボタと音が聞こえそうな大粒の涙が頬を伝っていた。



「ああ、そう言ったよ」
 暖炉の前でワイングラスを傾けながら、頷いたヴォルフの左の頬が赤い。
「もういらない。飽きた。だから、婚約も解消だと言った。それが何か?」
 握った拳が震える。
 まるで、あの大学時代の時のように。
「そんなことを聞きに、今から寝ようとする侯爵を訪ねて来たのかね?」
「当然だろう。オルガが泣いているのだぞ」
「泣くほどのことでもあるまいに。馬鹿馬鹿しい」
 飄々と肩をすくめるヴォルフは、まるで昔の彼に立ち返ったような顔で口元に冷笑を浮かべた。
 壁際に控えたモートンは、同じく隣に立っていたファビオの戦慄く腕を掴む。
「なぁ、ヴォルフ・・・」
 喉まで出掛かった。
 父のことで、いっぱいなのだと。
 お前なりに何か思い悩んでのことと思うが、今は我慢してくれと。
 言いかけて、言葉を飲み込む。
 彼は、ずっとそうやって生きてきたのだ。
 母親の為に、セドリックでなく、ルシアンとして生きることに耐えて。
「なぁ、ヴォルフ・・・」
 そっと握った手が、振り払われた。
「~~~ヴォルフ。ちゃんと、思っていることを話しなさい」
「話すことなどない」
「ほう。ならば、膝の上で白状するかね?」
 ビクリと、ギクリと。
 子供のようなふくれ面の上目遣いが向けられるはずの言葉。
 だが、ヴォルフはワイングラスを揺らしながら頬杖をついた表情を動かさなかった。
「そういうの、もう、いいから」
 ゆったりと顔を上げたヴォルフが、侯爵然と鼻で笑う。
「これで終わりだ、フォスター。私はもう、君と関わりたくない」
―――これで終わりだ、ヴォルフ。僕はもう、君と関わりたくない。
 かつて、自分が彼に言い放った言葉。
 


 不機嫌満面で旅仕度をするファビオを苦笑して眺めやり、ヴォルフは黙って彼の入れた朝一番のお茶を口に含んで顎を撫でた。
「渋みが出ているぞ。お茶の味に気分を反映させるなよ」
「これはこれは。未熟で相すみませぬことで」
 ヴォルフは自分を見ようともしないファビオの背中を見つめていたが、やがて首をひと振りして、この屋敷で最後のお茶を口に含んだ。
 クラウン夫妻が訪問した昨日、夕食まで共にしていくとのことだったので、ヴォルフは自室で夕食を摂った。
 なので、クラウン達が再びこのフォスター家に住まうことになったと、知らぬままだったのだが。
 その夜、オブシディアンを寝かしつけてから、懲りもせずに寝室にやってきたオルガ。
 就寝前の世話をしていたファビオは、懸命に追い出そうとしてくれていたのだが、それをからかうようにひらひらとかわして、オルガはヴォルフの胸に飛び込んできた。
「おい、オルガ! 旦那様に言いつけるぞ!」
「ファビオがいれば二人きりではないでしょ」
「え? ん? ああ、そうか・・・。って、違う!」
 うん、違うな。
 ヴォルフとて、それくらいはわかるようにはなっていた。
 フォスターは、年頃の娘が男性だけの個室に平気で入り込む行為に対し、警戒心と恥じらいを持てと、躾ようとしているのだと思う。
 二人きりは駄目で三人ならいいとか、そういう問題ではない。
 ファビオに限ってそんな不埒な真似をせぬであろうが、これを外で気軽にやる娘がいつ危険に合うかわからない。
 そうならない為の躾。
 貴族の姫君ならば一人で行動することはまずないが、オルガはフォスターに引き取られながらも養女でなく平民のまま過ごしている。
 言葉を。衣服を。人格を。人間であることを。
 すべて奪われて過ごしていた下町の少女に、自由を与えたフォスター。
 自由とは、自分で自分を守る術を必要とすること。
 その矛と盾の備えをさせる。
 フォスターが躍起になっているのは、そういうことなのだろうと理解できるようになってきた。
 そして。
 オルガのこの無防備な行動は、ヴォルフが植え付けたこと。
「・・・オルガ。ちゃんとフォスターの言うことを聞いて。フォスターはお前を大切にしたいのだよ」
 多分。そうなのだろうと。漠然と。そう思う。
「ヴォルフだって、私を大切にしてくれるじゃない」
「そりゃ・・・」
 乾いた大地への雨。
 叫びが飲み込まれていくだけの空洞で、声が反射した黒曜石の壁。
 蹲っていた暗闇と、陽の差す温かな場所へ橋を掛けてくれた、少女。
 愛おしい。
 愛おしい。
 愛おしい少女。
 幸せだった。
 もう二度と振り返ってもらえないと思っていた学友は、自分をまるで弟のように大事にしてくれる。
 たくさんお尻を叩かれて叱られた。
 もう決して見捨てないからだと、そう言って、叱ってくれる。
 かつての学友だけでなく、その執事も、その父も、その父の執事も。
 今、オルガをかき抱く自分を不服げに見つめている少年も。
 彼は学友がオルガのナイトとして採用したのに、いつしか、自分の兄貴分のように守ってくれて。
 ミンナ、ダイスキ。
 アタタカイ。
 シアワセ。
 染み渡るようなこの気持ちが、どうしようもなく嬉しかった。
 だから。
 フォスターからオルガの両親の末路を聞かされた時、思った。
 シアワセ。デ。イイノ?
 ジブンガ、シアワセデ、イイノ?
 自分の行動が生む結果など、考えたこともなかった。
「ヴォルフ? ねぇ。ねぇってば。抱いてなんて言ってないでしょ。お喋りくらい、いいじゃない」
「・・・お前ね、自分の魅力を自覚しなさい」
「ふぉすたみたいなこと言わないの。あのね、良いニュースと悪いニュース、どっちから聞きたい?」
 ヴォルフはオルガのぬくもりに負けて、肩をすくめて彼女の頬にキスをした。
「なら、悪いニュースから。良いニュースで、心のリカバリーを図るとするか」
「ふふ。あのね、スコールドがこのお屋敷に戻ってくるって」
 ヴォルフは苦虫を噛み潰したような顔を片手で覆い、大仰な吐息をついた。
「勘弁してくれ・・・。お尻がヒリヒリしてきた」
「じゃ、良いニュースで手当しなきゃね。ふぉすたのおじ様とおば様も、ここに戻ってくるって!」
「え」
 ヴォルフは片手で覆ったままだったのを良いことに、顔を思い切りほころばせた。
「お父様が・・・」
 怒ると怖いし、お仕置きはフォスターより遥かに厳しいし、先日のこれでもかとぶたれたお尻の痛みも記憶に新しいけれど。
 ダイスキ。
 我が子のように、愛おしんでくれる人。
 まざまざと思い起こす、フォスターの婚儀までの日常。
 また。またあの日々が。
 じんわりと温かくなった胸が、胸の中で微笑みを浮かべるオルガを見下ろした時、凍りついた。
 マタ、モット、シアワセニ、ナル。
 フォスターの小さな小さな息子を、幾度も幾度も訪ねていく幸せも増えて。
 ただでさえ溢れんばかりの幸福感の中。
 もっと。
 更に。
 シアワセ。
「・・・オルガ」
「なぁに、ヴォルフ?」
「いらない」
「何が?」
「お前は、もう、いらない」
「・・・え?」
 黒曜石の瞳が震えた。
「いらない。飽きた。婚約も解消する」
 吐息混じりに壁際で控えていたファビオが目を剥いて歩み寄ろうとするより早く、オルガの平手がヴォルフの頬を打った。
「もう一度、言ってごらんなさいよ」
「・・・同じことを何度も言わせるな」
「~~~ああ、そう! いらないなら、私は出て行く」
「・・・お前はここにいればいい。私が出て行くよ」
 そして。
 オルガが寝室を飛び出して行ってしばらく後に、フォスターがモートンを伴ってやってきた。
 だから、言った。
 自分はフォスター家を出て、領地の城に帰ると。
 出仕は確かに難儀するが、汽車で通えぬことはないと。
 議会が連日に及ぶなら、ホテルなり借家なりと、やりようはいくらでもあると。
 元々、没落必至のヴォルフ領がどうにか立ち直る今に至った礼も、領主として非礼無くのたまった。
 フォスターは、血が滲まんばかりに唇を噛み締めて、黙って震えていた。
「・・・セドリック様。準備、整いました。駅に向かわれるお時間です」
 ファビオがいつもの懐中時計に目を落として言った。
「ファビオ。お前、時々その懐中時計をお守りのような目で見るね」
「・・・お守りですから。力及ばない僕に、モートンが託してくれたお守りです」
 その懐中時計がどうやってファビオの手に渡ったのか知る由もないヴォルフは、静かに微笑んだ。
「ファビオ。お前が力及ばないなどと、思ったことは一度もないよ。だからだ。さようなら」
 シアワセ。
 シアワセを。
 シアワセデシタ、に。
 ヴォルフは、ファビオが持ち上げようとしたトランクの取っ手を、自ら持ち上げた。



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