オルガ

第十話 天の采配

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 招待状が届く度、ヴォルフはとても嬉しそうに、フォスター伯爵家の蝋封を見つめていた。
 そんなヴォルフを、床に寝転がって眺めるオルガ。
 相変わらず裸だが、首輪はない。
 裸でいれば、寂しそうにしているヴォルフにいつだって体温を感じさせてあげられる、フォスターに言わせれば、的の外れた気遣いだったが。
 これしか、オルガはやり方を知らない。
 ヴォルフという寂しい人を、慰める手立て。
 オルガとて、ここに来たばかりの頃は、この暴君が大嫌いだった。



 きっかけは、ささやかな仕返しだった。
 自分が生家の貧しさ故に売られてきたことは、幼いながら理解していた。
 だから、もう自分には帰る家もなく、名も言葉も衣服も、人間であることすら奪われたまま、この恐ろしいヴォルフという「飼い主」の 元で、唯一与えられた首輪をはめて一生を過ごさねばならないのだと、わかっていた。
 願わくば。
 願わくば、父と母が、娘にこんな境遇が待ち受けていると知らずに、金を受け取ったのでありますように。
 ただ貴族の屋敷の下働きに雇い入れられるのだと、そう信じて娘を売ったのでありますように。
 そんなことを日々願うばかり。
 丸裸の上に、四つん這いで歩くことを強制され、当初は膝小僧が擦り剥けて血が滲み、いつもカサブタだらけ。
 そう課したのはヴォルフなのに、カサブタになった膝を見て、彼は「汚い」と眉をひそめる。
 膝小僧で歩こうとするから擦り傷になるのだから、お尻を突き上げて足の裏で四つん這いすることを覚えた。
 とても力が必要できついし、恥ずかしい格好だとわかっていたが、痛む膝小僧を毎日舐めて癒すよりマシだった。
 床に置かれた皿からご飯を口だけで貪るのも、水を舌で舐めすくうのも、飢えや乾きよりマシだった。
 触れられたことのないところを触れられ、咥えたことのないものを咥え、それを見世物にされたところで、鞭で打ち据えられるより、マシだった。
 マシ。
 マシなだけ。
 毎日、どうしようもなく惨めだった。
 裸で過ごす冬。
 ベッドで寝られるなら、誰のベッドであろうが潜り込んだ。
 体を好きにさせれば、一夜だけでも温かなベッドで眠りにつけるのだから。
 だが、当てが外れて、事が済んだらベッドから追い出されることも度々。
 そんな時は、次のベッドへ潜り込む。
 ヴォルフの寝室で一夜を過ごさなければならない日は、最悪だった。
 弄ばれるだけ弄ばれて、必ずベッドから追い出される。
 その上、寝室から出ることは許されず、せめてベッドが置かれているふかふかの絨毯で眠りたいのに、ヴォルフは必ずドアの傍の大理石の床に彼女を追いやるのだ。
 ひんやりとした大理石の上で凍えながら、ヴォルフが寝入るのをじっと待つ。
 彼が寝入ったら、そっと絨毯の上に移動して、丸まって眠る。
 朝、ヴォルフが目を覚ます前に起きて、大理石の上に戻る。
 そうやって寒い夜をやり過ごす方法を、オルガは学んでいた。
 その日もそうだった。
 とても冷え込む夜で、大理石はまるで氷の上にいるようだった。
 歯の根が合わなくなってきて、ガチガチと鳴ってしまうのを、必死で堪えた。
 静かにして、ヴォルフが少しでも早く寝てくれなくては、本当に凍え死んでしまう。
 しばらくすると、ヴォルフの寝息が聞こえてきて、ようやく絨毯の上に移ることができた。
 あんまり寒くて、ベッドの傍に近付いた。
 ベッドが近い方が温かい空気に触れられると、学習していた。
 ヴォルフが目を覚まさないように、そっとベッドを覗き込む。
 人の傍に行けば、その体温を感じて、もっと温かいから。
 こんな残酷な人でも、体温は温かかった。
 寝顔を覗き込んで、唇を噛みしめた。
 ひどいことばかりさせて、気に入らなければ鞭を振るって、大嫌いなこの男の体温が自分を温めている。
 惨めで、悔しくて、無性に腹が立ってきて・・・。
 ささやかな仕返し。
 思わず、ヴォルフの頬をぶってしまったのだ。
 自分のしたことに青ざめて、慌てて大理石の床に戻った。
「ん・・・」
 ヴォルフが呻いた。
 ぶったなどと知れたら、どんな目に合されるか。
 寒さよりも上回る恐怖で、体を小さく小さくすくめた。
「・・・すた、・・・ふぉす、た・・・」
 呻き声が続いた。
 ビクビクと聞き耳を立てていたオルガは、彼が目を覚ましたのではないことに気付いて、ホッと胸を撫で下ろす。
 恐る恐る絨毯に戻ってみる。
「・・・フォスター・・・、ごめ・・・」
 うわ言。
――――ふぉすた?
 再びヴォルフの顔を覗き込んでみる。
 なんて悲しげな顔。
 今にも泣き出しそうな、およそ彼が浮かべたことのない表情。
 ぶたれた頬に手を当てて、「フォスター」といううわ言を繰り返すヴォルフが、なんだか可哀想に思えた。
 それが、少女が「フォスター」という名を聞いた最初だった。



「・・・そう、また行くの」
 フォスター家からの招待状の件を執事から聞かされたオリガは、主人の他家訪問の為の準備を、メイド頭として他の使用人たちに指示を与えた。
 本来、使用人の中では執事がその家の最高責任者だが、ヴォルフ侯爵家では少々趣が異なる。
 何故なら暴君の主に辟易した執事や従僕が、次から次へと入れ替わるので、この家の隅々まで知っているのはオリガだけ。
 必然的に、彼女を中心にヴォルフ家は回っているのだ。
 この家に勤めて既に五年近くなる。
 オリガはヴォルフが喜ぶ趣向を、すっかり把握していた。
 フォスターが眉をひそめる醜悪な宴も、すべてオリガがヴォルフに提案してみせたこと。
 平民の小娘を飼育してみるのはどうかと、発案したのも彼女だ。
 何故なら、時折何かが爆発したように癇癪を起こして鞭を振るい始める主。
 体を好きにされるのはいいが、あれだけは御免だった。
 その矛先を、別に向けてしまえばいい。
 なかなかの名案だと思ったし、実際、下町からオルガを買い取ってきてしばらくは、オリガの思惑通りに事が運んだ。
 それなのに、いつしか思っていたのと違う方向に転がっていく事態。
「また私の招待を断るか、フォスターめ!」
 当時、執事の報告を聞いたヴォルフが、癇癪を起こすのはいつものこと。
 手当たり次第、当たれるものなら何でもという荒れぶりに、近付ける者はいない。
 いなかった。
 オリガが知る限り、いなかったのに。
 今は、オリガが買ってきたあの娘がいる。
 娘はどこからともなく現れて、荒れ狂うヴォルフが投げ散らかす物を意に介すことなく、四つん這いの歩を進め、彼の前にやってくる。
 そして、精一杯両腕を伸ばし、ペットである姿勢は崩すことなく、それでいて、その瞳は聖母のごとく。
 ヴォルフはそんな娘に目を落とし、ただ黙ってその場に屈むと、娘の手がヴォルフの頬に届き、手の平が彼の頬を包む・・・。
 その静けさは、まるで奇妙な宗教画のよう。
 だが、この聖母、いついかなる時もヴォルフに救いの手を差し伸べるわけではないらしく、同じように不機嫌に荒れているだけのヴォルフの元にはやってこない。
「来い! 命令だぞ! どこに行った! あの雌犬めぇ! 見つけたらただではおかんぞ!」
 雌犬と呼ばれる娘が、聖母になる瞬間。
 それは、「フォスター」。
 フォスターに招待を断られ、荒れることもなく、「そうか」と静かにそれを受け入れたヴォルフの元にも、聖母はやってくる。
 そして、そっと彼の頬に手を当てる。
 恐らく、そのことに気付いているのはオリガだけ。
 娘の手は、怒りをおさめているのではない。
 寂しさを癒しているのだ・・・と。
 オリガとて、ヴォルフが本心何を求めているのか、知っていた。
 知っていたが、そこに近付けたくなかった。
 彼を寂しいままで居させれば、オリガの言うことを聞く。
 自分のことがあからさまに好きなくせに、立場を重んじて決して手をつけようとしないフォスターより、理由がどうあれ、自分を手中に収めようとするヴォルフの方が、御し易かった。
 そもそも、位が違う。
 同じ貴族の妾に登り詰めるなら、伯爵より侯爵。
 そう思っていたのに、自分は未だに使用人の域を出ず、自分が買い与えた玩具が、ヴォルフの隣にはべっている。
 オリガは提案した。
 自分が仕上げたペットを、お披露目してはどうか・・・と。
 やはり、ヴォルフはその趣向を喜んで受け入れた。
 招待客に、娘を弄ばせる。
 最初の内は抗っていたオルガも、ヴォルフに恥をかかせれば鞭を据えられると学び、大人しくなった。
 定例となっていくサロン。
 けれど、ここでまた、オリガが想定していなかった事態を生む。
 サロンの真ん中で、幾人もの招待客に好き放題に嬲られる少女を見るヴォルフの目が、険しい。
 サロンが終幕すると、その都度、彼はオルガに手酷い折檻を与えるようになる。
 オリガは愕然とした。
 この、心の壊れた侯爵は、オルガが他人の手に触れられることを、嫉妬しているのだ。
 どうにかしなければ。
 この男が何故こういう行動に出ているのか、自分で気付いてしまわぬ内に、どうにかしなくては。
 オリガは、また囁く。
 見ていて不愉快なものは、売り払ってしまうといい。
 ヴォルフは珍しく考え込んでいたが、結局、頷いた。
「気持ち悪いのは、嫌だ」
 かくして開催された競売会。
 選りに選って、その日に限って招待に応じたフォスター。
 小娘も彼も、どちらもオリガにとって邪魔であるのに、この二人が共に暮らすことになるなど、完全な計算外だった。
 お陰で、ヴォルフはオルガを忘れない。
 フォスターと一緒にいるオルガ。
 何故。
 自分は幸せになりたいだけなのに、何故、上手くいかない。
 オリガが爪を噛む日が続いていた。



「よく降るな・・・」
 窓辺に佇んで降り注ぐ大粒の雨を見つめていたフォスターは、溜息をついて髪を掻き上げた。
 フォスターの住まう国は、あまり天災を体験することのない地形だ。
 こんな大雨が続くのも数十年ぶりで、フォスターには生まれて初めてである。
「旦那様、やはり、ご領地でも同じような天候で、川が増水しているとのことです」
「・・・いかんな。今年は作物の収穫が見込めそうにない。モートン、領地への援助金を、支給手配してくれ。それから・・・」
「いつでもご出発頂けるよう、準備は整ってございます」
 ありがたい話だ。
 この老練な執事のお陰で、自分のような若輩者でも領地を滞りなく治めていられる。
 迅速なモートンの仕事ぶりで、その日の昼には領地へと旅立つことができた。
 1日半掛かって到着した領地は、やはり増水した川の氾濫で付近の畑はやられ、領民の家屋も何棟か水に浸かっていた。
 雨は止んだが、惨状は散々たるものだ。
 到着したフォスターは、休む間もなく復旧の陣頭指揮に当たり、早々に手配させていた援助金の分配方法を領民の代表者たちと話し合い、家屋が水に浸かって生活が立ち行かなくなった家庭に見舞いに廻る。
 付き従っていたモートンが、そんな彼の姿に目を細めて微笑んでいた。
「旦那様、どうぞ少しご休憩を。領民たちが、あちらで炊き出しを行っております。旦那様に、是非振る舞いたいと申しておりますので」
「うん、ありがたく頂戴するとしよう」
 モートンに手渡されたカップのスープを口に運びながら、フォスターはようやく人心地つくことができた。
「・・・我が領地には海がない。海辺の土地は、どうなっているのだろう」
「ヴォルフ侯爵家のご領地でございますね。状況は聞き及んでおります」
 さすが、主の気持ちを察するに長ける執事。
 フォスターが忙しくしている間に、調べていてくれたのだろう。
「この天候で海は荒れ、こちら以上の被害が出ているとのことです」
「・・・やはりな」
 ヴォルフの領地は海からの恵みの風を受ける立地で、農作物の収穫高はフォスター家の数倍だった。
 港から作物を出荷できるし、漁業も盛んで、さすが侯爵家という収益を常に確保していたが・・・規模が大きいだけに、被害総額も群を抜くだろう。
「漁船のほか、運搬船もかなり沈んだとのことです」
「・・・まずいな」
「はい・・・」
 領地で得る収入を運用し、財源を常に確保してきたフォスター伯爵家ですら、今回の援助金は相当痛手だ。
 彼の暴君ぶりに目まぐるしく家令が入れ替わるヴォルフ侯爵家に、果たして、準備できるだろうか。
 おそらく、ヴォルフ侯爵家は、破産する。



つづく





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